一節 修羅異界

九.海たるヒグアレ ①

 リチア中央城塞では、野盗の襲撃をしのいで帰還したげつらんのラナとともに、新たに雇われた傭兵二名がタレンヘの面通しを終えていた。

 全員が着席していたが、調査兵ラナの小柄な体は、会議室の椅子の高いひざ掛けの間に半ば埋もれるようである。


おとりシャルク。うみたるヒグアレ。名だたる二名を確保するとは、上々の収穫だったな、ラナ。……〝かい〟までは高望みだったかな」

「残念ながら、それらしい者は誰も。ま、さすがに尾ひれのついた噂だったんでしょうねえ。全能のじゅつなんて代物があれば、そりゃ戦にも楽に勝てるでしょうが」

「ふ。実在したとて、その次はその者を制御する方策を考えなければならんかもな」


 骸魔スケルトン根獣マンドレイク。強大な戦力が確かであっても、こうを始めとした尋常のじんぞく国家ではまず採用されぬ異形であろう。だがタレンが求めているのは、百の兵と向かったとしても、一の力で打ち倒すことを可能とする突出した英雄だ。それが人間ミニアである必要はない。

 尋常の尺度を凌駕する逸脱が、この地平にはあり得る。限りない伝説と事実が、何よりも〝本物の魔王〟の実在が、それを証明しているのだから。


「まず、噂は聞いているぞ。うみたるヒグアレ。辺境では無敗の剣闘士であったそうだな」

「はい。それなりに長く続けてきました。人間ミニアの単位でいうと、十三年か十四年になるかと」

「……奴隷剣闘か?」


 外の尖塔を眺めていたシャルクが、げんそうに頭蓋を傾げた。タレンが代わりに答える。


「辺境には人や獣の命を賭けに使う野蛮な市もあった。無論、違法の所業だ。こうなどでは、近年は奴隷の権利向上の流れに進みつつあるようだが……〝本物の魔王〟の暗黒時代には、王国の目が届かぬ地も多かったものだ」

「そういうことじゃない。十四年間もその手のごろつきの言いなりになってたってことだろう。それで無敵っていうのは、どうにも違和感があったんでな」

「確かに、シャルクの言葉にも一理はある。差し支えなければ聞かせてもらえるか、ヒグアレ」

「はい。大した話でもありませんが」




 じんぞくに名も知られぬ西方辺境の森林で、うみたるヒグアレは生まれた。

 知性持つ植物である根獣マンドレイクの中にあってヒグアレは他の個体よりも大きく、人間ミニアと同じ程の背丈にまで育った。故に森林近くの都市の人間ミニアは、彼を選んで〝収穫〟した。

 ヒグアレは彼らが運営する娯楽の闘技で打ち倒されるべき、余興のためのじゅうぞくであった。

 暗闇の中で、初めて人間ミニアと交わした会話を覚えている。


「武器の握り方を知っているか」

「いいえ。意味がわかりません」

「剣だよ。いくら奴隷闘技だからって、ろくに抵抗もできねえ根獣マンドレイクを殺すだけじゃ盛り上がンねえだろうが。短剣の握り方、明日までに覚えろ」

「はい。それで戦えばいいですか」

「その根っこの手で戦えるならな」


 じんぞくの社会に無知であったヒグアレは憤るでも嘆くでもなく、そういうものか、と思った。

 だから、そのようにした。

 ──翌日。秘境からの根獣マンドレイクが、対戦相手の奴隷闘士を滅多刺しに刺殺する光景があった。


 植物を起源に持つことから、根獣マンドレイクを鈍重な生物であると認識する者は多い。しかし柔軟な蔓は鋼鉄のバネにも近い強度を備えており、弾ける速度は、体躯と技術次第でそれ以上にもなる。

 加えて、全ての根獣マンドレイクは有毒である。ごく微量で神経細胞を溶解し、激痛と呼吸障害により速やかに命を奪う猛毒は、この地上で最も致死的な化学物質の一つなのだ。

 単純な事実だけを述べるのならば、大型の根獣マンドレイクを用いた興行をもくんだ彼らが愚かだったということになるのだろう。ヒグアレにとっては、ある意味での幸運でもあった。人の慢心と無知が、最初の幾度かの試合で彼を勝利させた。


「次の試合は、どなたが相手ですか」

「……試合? お前なんぞに一人戦が組まれるわけがねェだろ。これまでみたいな木っ端の奴隷じゃねえ、上位闘士が三人だ。試合じゃなくて討伐戦だよ。せいぜい上手に死ねや」

「いいえ。死にたくはありません」

「残念だがなあ、ヒグアレ。殺すか死ぬかなんだよ。この闘技場ではな」

「殺すか、死ぬか」


 ヒグアレは従順だった。翌日の試合では三人を殺した。

 殺し続ければ死なないという事実を、言われた通りに受け入れていた。


 最初は剣の握り方すら知らなかった根獣マンドレイクは、学習をしていた。人であるか否かに関わらず、自分よりも長く戦い続けてきた闘士が自分よりも優れた技を身につけていることを、当然の事実として受け入れていた。致死の毒と蔓による斬撃で敵を打ち倒す一方で、彼らがどのようにして敵を追い詰め、危機を回避し、戦術を組み立てるのかを、互いが死を賭した奴隷闘技の極限の環境の中で観察していた。

 根獣マンドレイクとしての生来の身体性能ではない、ヒグアレ自身に由来する才能があったのだとすれば、それはその従順さであった。



「次の試合は、ない。お前は別の市に売ることにした」


 その日に会話を交わしたのは、恐らくはこれまでのような見張りではなく、闘技場を主催する興行主だったのだろう。

 表立っての奴隷闘士の確保が王国の定める法によって禁じられている以上、ただ一匹で対戦相手を殺し続けるヒグアレは、小規模な市ではもはや手に余る闘士と化していた。


「はい。別のあるじですか。さらに強い者と戦わされることになりますか」

「ま、そうなるだろうよ。知性があろうとじゅつが通じようと、所詮はじゅうぞくだ。試合で殺されんのはお前の方になるんだろうさ」

「なぜでしょうか。私がじゅうぞくなのは生まれつきで、どうにもできません」

「──化物がじんぞくに倒される方が映えるんだ。お前が死ぬのはそれだけの理由だよ」

「……。いいえ。死にたくはありません」


 従順なヒグアレに唯一反抗の意志があったのだとしたら、それは死を拒む意志だった。

 その一つの意思は試合を重ねるごとに強固になっていって、ヒグアレ自身にもその理由は分かっていなかった。


(……? 私は、生きていたいのか? このまま生きていたとして、何の意味がある?)


 生に執着しているわけではない。ただ、死にたくはなかった。


 とらわれの身となった王国の正規兵が、長き鍛錬で研ぎ澄まされた刃で挑んできたことがある。


「ヒグアレ……! 恨むな! 俺は貴様を斬って、国に帰る!」

「わかりました。恨みません」


(腰からの回転だけでなく、背骨を弓のように使って初撃の速度を出している。私の体で再現するなら、体内の維管束を編んで──)



 村の子供を十二人喰らった大鬼オーガが、人外のりょりょくで振るうおおなたで挑んできたことがある。


「いい日だ。じんぞくが俺達の戦いを見て、恐れる。連中が俺達を見下し続けるのなら、俺達は奴らを戦いで恐れさせなければならないだろう、ヒグアレ」

「そうですね」


(速度で追いつけても、力では負ける。私の蔓では、押し込み続けるだけの力の持続がないから。複数本の斬撃を寸分違わず同時に──)



 銃を装備した処刑人達の前に引き出され、動く標的として扱われたことがある。


「ヒグアレ。ここまでお前はよく戦ってきたよ。今日は最後の晴れ舞台だなァ」

「ありがとうございます」


(指先の筋肉を見る。銃弾の発射速度に私の斬撃が間に合うかどうかを試してみたい。蔓の射出反動で私が視界の外に消えたとして、処刑者が他の奴隷闘士と同じ程度の反応ならば──)



 押しつけられる絶対不利の試合を唯々諾々と受け続け、その一戦を勝ち残る以上に、より過酷なものとなるであろう次の一戦への成長のために、敵を観察し、鍛錬した。彼に師は存在せず、同時にその手にかけた奴隷の全てが師であった。

 毎回のように一方的かつ悪辣な試合を組まれていても、ヒグアレは、試合の外で処断されることはなかった。興行主にその理由を与えないほど、彼は従順だった。

 やがて最強の闘士として名が知れるに至り、もはや試合を見る観客の側が、うみたるヒグアレの敗北を望まなくなっていった。誰にも殺すことのできぬ、無敵の奴隷。


(短剣の刃を突き込む、最適の軌道を)


 根獣マンドレイクは、周囲の評価にすら左右されることすらなかった。常に、地下で剣を振り続けた。

 試合の外では、暗闇の中の僅かな水滴が、亀裂が、彼の鍛錬の標的であった。

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影