一節 修羅異界
九.海たるヒグアレ ①
リチア中央城塞では、野盗の襲撃を
全員が着席していたが、調査兵ラナの小柄な体は、会議室の椅子の高いひざ掛けの間に半ば埋もれるようである。
「
「残念ながら、それらしい者は誰も。ま、さすがに尾ひれのついた噂だったんでしょうねえ。全能の
「ふ。実在したとて、その次はその者を制御する方策を考えなければならんかもな」
尋常の尺度を凌駕する逸脱が、この地平にはあり得る。限りない伝説と事実が、何よりも〝本物の魔王〟の実在が、それを証明しているのだから。
「まず、噂は聞いているぞ。
「はい。それなりに長く続けてきました。
「……奴隷剣闘か?」
外の尖塔を眺めていたシャルクが、
「辺境には人や獣の命を賭けに使う野蛮な市もあった。無論、違法の所業だ。
「そういうことじゃない。十四年間もその手のごろつきの言いなりになってたってことだろう。それで無敵っていうのは、どうにも違和感があったんでな」
「確かに、シャルクの言葉にも一理はある。差し支えなければ聞かせてもらえるか、ヒグアレ」
「はい。大した話でもありませんが」
◆
知性持つ植物である
ヒグアレは彼らが運営する娯楽の闘技で打ち倒されるべき、余興のための
暗闇の中で、初めて
「武器の握り方を知っているか」
「いいえ。意味がわかりません」
「剣だよ。いくら奴隷闘技だからって、ろくに抵抗もできねえ
「はい。それで戦えばいいですか」
「その根っこの手で戦えるならな」
だから、そのようにした。
──翌日。秘境からの
植物を起源に持つことから、
加えて、全ての
単純な事実だけを述べるのならば、大型の
「次の試合は、どなたが相手ですか」
「……試合? お前なんぞに一人戦が組まれるわけがねェだろ。これまでみたいな木っ端の奴隷じゃねえ、上位闘士が三人だ。試合じゃなくて討伐戦だよ。せいぜい上手に死ねや」
「いいえ。死にたくはありません」
「残念だがなあ、ヒグアレ。殺すか死ぬかなんだよ。この闘技場ではな」
「殺すか、死ぬか」
ヒグアレは従順だった。翌日の試合では三人を殺した。
殺し続ければ死なないという事実を、言われた通りに受け入れていた。
最初は剣の握り方すら知らなかった
「次の試合は、ない。お前は別の市に売ることにした」
その日に会話を交わしたのは、恐らくはこれまでのような見張りではなく、闘技場を主催する興行主だったのだろう。
表立っての奴隷闘士の確保が王国の定める法によって禁じられている以上、ただ一匹で対戦相手を殺し続けるヒグアレは、小規模な市ではもはや手に余る闘士と化していた。
「はい。別のあるじですか。さらに強い者と戦わされることになりますか」
「ま、そうなるだろうよ。知性があろうと
「なぜでしょうか。私が
「──化物が
「……。いいえ。死にたくはありません」
従順なヒグアレに唯一反抗の意志があったのだとしたら、それは死を拒む意志だった。
その一つの意思は試合を重ねるごとに強固になっていって、ヒグアレ自身にもその理由は分かっていなかった。
(……? 私は、生きていたいのか? このまま生きていたとして、何の意味がある?)
生に執着しているわけではない。ただ、死にたくはなかった。
「ヒグアレ……! 恨むな! 俺は貴様を斬って、国に帰る!」
「わかりました。恨みません」
(腰からの回転だけでなく、背骨を弓のように使って初撃の速度を出している。私の体で再現するなら、体内の維管束を編んで──)
村の子供を十二人喰らった
「いい日だ。
「そうですね」
(速度で追いつけても、力では負ける。私の蔓では、押し込み続けるだけの力の持続がないから。複数本の斬撃を寸分違わず同時に──)
銃を装備した処刑人達の前に引き出され、動く標的として扱われたことがある。
「ヒグアレ。ここまでお前はよく戦ってきたよ。今日は最後の晴れ舞台だなァ」
「ありがとうございます」
(指先の筋肉を見る。銃弾の発射速度に私の斬撃が間に合うかどうかを試してみたい。蔓の射出反動で私が視界の外に消えたとして、処刑者が他の奴隷闘士と同じ程度の反応ならば──)
押しつけられる絶対不利の試合を唯々諾々と受け続け、その一戦を勝ち残る以上に、より過酷なものとなるであろう次の一戦への成長のために、敵を観察し、鍛錬した。彼に師は存在せず、同時にその手にかけた奴隷の全てが師であった。
毎回のように一方的かつ悪辣な試合を組まれていても、ヒグアレは、試合の外で処断されることはなかった。興行主にその理由を与えないほど、彼は従順だった。
やがて最強の闘士として名が知れるに至り、もはや試合を見る観客の側が、
(短剣の刃を突き込む、最適の軌道を)
試合の外では、暗闇の中の僅かな水滴が、亀裂が、彼の鍛錬の標的であった。



