一節 修羅異界

九.海たるヒグアレ ②

(毒をより有効に操る手段を研鑽しなければ。次は敗北するかもしれない。次は手の内を読まれている可能性がある)


 きょうでも自制でもなく、事実としてそのように考え続けてきた。、その言葉を愚直に信じ続けていたから。


 ひたすらに戦い続ける中で他の奴隷闘士は少しずつ欠けていき、観客もまばらになりはじめた。見張り役の言葉には奇妙な恐怖が見え隠れし、彼以外の者は落ち着きをなくしていった。そうした異変をも気に留めずに研鑽を続けた。

 彼が囚われている間に、時代は移ろっていた。〝本物の魔王〟の到来である。

 ──そしてその日が来た。うみたるヒグアレは、唐突に自由の身となる。

 地下ろうは開け放たれ、全ての奴隷闘士が解放された。魔王軍の侵食が始まったのだ。

 炎があった。互いに殺し合う人間ミニアの姿があった。魔王軍の狂気が、街を覆いつつあった。


 死と狂乱から逃げ惑う人々に逆行して進みながら、ヒグアレは疑問に思った。

 ──何故彼らは戦わないのだろう。

 錯乱して襲いかかってきた敵を、彼は当然の道理として殺した。

 肋骨の隙間に短剣を突き込んで、捻って、抜く。外の世界に生きる者も、彼が戦ってきた戦士と同じようにそれで死んだ。


「なるほど」


 知らず、呟いていた。外の世界で初めて与えた死で、それをようやく納得できたように思えた。

 自由の身になっても、世界は何も変わらないのだ。殺すか、死ぬか。最初に学び、従順に従ってきたたった一つの教えは、やはり正しかった。

 どうして──ただの植物の塊である自分に、死を拒み続ける意志があるのか。


(そうか)


 彼は勝ち続けてきた。生きているということは、他の生物の生きたいという願いを踏みにじった上で、世界に立っているということだからなのだろう。

 彼と対峙する剣闘奴隷達が、じゅつなき獣達が、千にも届こうとする対戦相手が、同じことを願っていた。そのはずだった。


(そうか。これが誇りだったのか)


 自由の身になったとしても……死んでいった彼らのことを思うのならば、今更に殺されるわけにはいかない。

 うみたるヒグアレは無敵の剣闘士で、負けてはならない。


 彼らは生きていたかったのだ。


「は──」


 単調で、意味のない発声だった。自分の中からそのような声が出ていることが不思議だった。


「はははははははは」


 ヒグアレは平坦に笑った。生きてきた中で笑ったことは、それが初めてだった。

 笑いながら、無数の敵へと向かっていった。



 そして現在へと至る。根獣マンドレイクとしての意思が芽生えて以来、剣を振るう他の生き方を知らないままであった彼は、今はいましめのタレンの兵である。


「発見された時……こいつは魔王軍を殺していたんだと。本当の話だぞ」


 小柄なラナは、シャルクに向かって愉快そうに言った。シャルクは真剣に尋ねた。


「こいつは、〝本物の魔王〟に会ったことがあるのか?」

「そんなわけないだろう。だけど、あの魔王軍をだぞ! 普通はそんなこと思えるもんじゃない。こいつが勇者だったとしてもあたしは驚かないね」

「……話が本当なら、確かに大したもんだ。魔王軍にヤツか──」


〝本物の魔王〟が死んだ今の時代でも、魔王軍のことを敢えて口に出す者は極めて少ない。彼らがどれだけおぞましく、恐怖を呼び起こす存在であったのかを、誰もが覚えているからだ。

 死してなお正体不明の〝本物の魔王〟そのものよりも、あるいは魔王軍こそが何よりも普遍的な、時代を象徴する恐怖の姿であったかもしれない。



「おっ」


 ヒグアレの話が終わったちょうどその頃、奥の扉が開いて一人の青年が帰還した。室内の顔を眺め渡して口を開く。


「タレンちゃん。今日はまた、随分妙な連中が増えたね」

「貴様も名乗れ、ダカイ」


客人まろうど〟は二名を認めると、物珍しそうに根獣マンドレイクへと寄った。


「そっちの骸魔スケルトンは、槍使いか。根獣マンドレイクの方はちょっと何するか予想がつかないな……そもそも顔、どこにあるか分かんないし」

おとりシャルクだ。名乗れ、と言われたのはお前の方だと思ったが」


 骸魔スケルトン──シャルクが呟く。


「俺の聞き間違いだったか? どうも、死んでいると自分の感覚に自信が持てなくてな」

うみたるヒグアレと申します。よろしく」

「ふーん……そんなに強いか? あんたら……」


 ダカイは問いを投げつつ、ヒグアレの持っていた武器を手元で見定めている。


(……見たところ、普通のナイフか。体に何本か仕込んでるな)


 問いにはタレンが代わりに答えた。


「貴様と同じく、信頼に足る強兵だ。我々にも〝本物の魔王〟の如く──敵軍を畏怖させる個の力が必要だと考えている。軍団の運用は前提だが、長引く戦乱で兵と民が疲弊するよりも先に、敵の足を竦ませる恐怖の象徴が欲しい」

「今の時代なら、そういう抑止力が有効ってことか。自信はあるか? シャルク」

「悪いが、まだ期待に応えるつもりはない」


 シャルクは平然と返す。


「そこのヒグアレと違って、俺は傭兵なんでな。どれだけ安かろうが、前払いの報酬を受け取るまで、働くのは流儀に反する」

「分かっている。〝本物の魔王〟が死んだ〝最後の地〟の調査だな。シャルク。調査報告が揃うまでの間、ある程度は自由に待機していても構わん」

「はははは。まさか、そうやっていつも逃げてるわけじゃないよな?」

「──そっちこそ、まさか死人ならタダ働きするとでも思ってるのか? 確かめたいなら、お前さんが今、俺が動く分の金を払えばいいだけの話だ。二重契約くらいは目をつぶってやる」

「いいね。口の減らない奴は嫌いじゃない。そっちのアンタは……」


 話しながら、ダカイは卓上の皿に載る果実を一つ取る。紅果だ。それをヒグアレへと放る。


「……妙に静かみたいだけど。根獣マンドレイクって、何を食ってるわけ?」

「紅果は食べません」


 拳大の紅果は、手を離れた直後の地点で静止した。そのまま落下する。


(へえ)


 ダカイは内心で感嘆した。卓上に落ちた果実は形を保ったままだ。影すら見せぬ斬撃。あまりにも鮮やかに切断されたために、まだ切断面が離れずにいる。


「力を見たい、とのお申しつけであれば」


 紅果が割れた。二つ、四つ、八つ。その断片が急速に腐食して溶ける。

 蔓じみた〝腕〟のそれぞれが短刀を握って、遠隔の空中を三度切断したのであった。しかも、その刃の尽くが致死の猛毒。


「今、見せましたが」


 タレンは獰猛に笑い、柔らかに数度手を打ち合わせた。


「見事だ」


 彼女の支配する新公国は、力だ。独立によってこうの管理から外れたその力は、広大な地平全土から強者を集める求心力となった。

 このリチアに集うのは、そうした一握りの、りすぐりの異才である。

 ヒグアレの動きに注視していたげつらんのラナが、見解を述べる。


「……なるほど。根獣マンドレイクなら、三本の腕で同時に剣を使えるってことか。こんな距離から……しかも猛毒の根獣マンドレイクともなりゃ、確かに神業だね」


 まさしく人の身では為せぬ異形の剣術。それがうみたるヒグアレを生存せしめたのだと。


「いいえ」


 十四年もの間、ヒグアレの力の限界を見誤った者達が、その命を落としていった。

 この修羅の地平において究極の一つであるということは、常人の認識から遥かに──想像の領域からさえも遥かに隔絶した怪物であることを意味する。



「四十二本あります」




 それは死地にて散った膨大な流血に研ぎ澄まされた、決闘の技を持つ。

 それは生命である限り抵抗のあたわぬ、絶対致死の毒を秘める。

 それは異形の肉体にて極めた、常軌を逸する無量のけんせんを誇る。

 全てに従いながら何者にも支配されることのない、最も自在なる奴隷である。


 剣奴グラディエーター根獣マンドレイク


 うみたるヒグアレ。

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影