一節 修羅異界
九.海たるヒグアレ ②
(毒をより有効に操る手段を研鑽しなければ。次は敗北するかもしれない。次は手の内を読まれている可能性がある)
ひたすらに戦い続ける中で他の奴隷闘士は少しずつ欠けていき、観客もまばらになりはじめた。見張り役の言葉には奇妙な恐怖が見え隠れし、彼以外の者は落ち着きをなくしていった。そうした異変をも気に留めずに研鑽を続けた。
彼が囚われている間に、時代は移ろっていた。〝本物の魔王〟の到来である。
──そしてその日が来た。
地下
炎があった。互いに殺し合う
死と狂乱から逃げ惑う人々に逆行して進みながら、ヒグアレは疑問に思った。
──何故彼らは戦わないのだろう。
錯乱して襲いかかってきた敵を、彼は当然の道理として殺した。
肋骨の隙間に短剣を突き込んで、捻って、抜く。外の世界に生きる者も、彼が戦ってきた戦士と同じようにそれで死んだ。
「なるほど」
知らず、呟いていた。外の世界で初めて与えた死で、それをようやく納得できたように思えた。
自由の身になっても、世界は何も変わらないのだ。殺すか、死ぬか。最初に学び、従順に従ってきたたった一つの教えは、やはり正しかった。
どうして──ただの植物の塊である自分に、死を拒み続ける意志があるのか。
(そうか)
彼は勝ち続けてきた。生きているということは、他の生物の生きたいという願いを踏みにじった上で、世界に立っているということだからなのだろう。
彼と対峙する剣闘奴隷達が、
(そうか。これが誇りだったのか)
自由の身になったとしても……死んでいった彼らのことを思うのならば、今更この程度の敵に殺されるわけにはいかない。
彼らは生きていたかったのだ。
「は──」
単調で、意味のない発声だった。自分の中からそのような声が出ていることが不思議だった。
「はははははははは」
ヒグアレは平坦に笑った。生きてきた中で笑ったことは、それが初めてだった。
笑いながら、無数の敵へと向かっていった。
◆
そして現在へと至る。
「発見された時……こいつは魔王軍を殺していたんだと。本当の話だぞ」
小柄なラナは、シャルクに向かって愉快そうに言った。シャルクは真剣に尋ねた。
「こいつは、〝本物の魔王〟に会ったことがあるのか?」
「そんなわけないだろう。だけど、あの魔王軍をだぞ! 普通はそんなこと思えるもんじゃない。こいつが勇者だったとしてもあたしは驚かないね」
「……話が本当なら、確かに大したもんだ。魔王軍に向かっていったヤツか──」
〝本物の魔王〟が死んだ今の時代でも、魔王軍のことを敢えて口に出す者は極めて少ない。彼らがどれだけおぞましく、恐怖を呼び起こす存在であったのかを、誰もが覚えているからだ。
死してなお正体不明の〝本物の魔王〟そのものよりも、あるいは魔王軍こそが何よりも普遍的な、時代を象徴する恐怖の姿であったかもしれない。
「おっ」
ヒグアレの話が終わったちょうどその頃、奥の扉が開いて一人の青年が帰還した。室内の顔を眺め渡して口を開く。
「タレンちゃん。今日はまた、随分妙な連中が増えたね」
「貴様も名乗れ、ダカイ」
〝
「そっちの
「
「俺の聞き間違いだったか? どうも、死んでいると自分の感覚に自信が持てなくてな」
「
「ふーん……そんなに強いか? あんたら……」
ダカイは問いを投げつつ、ヒグアレの持っていた武器を手元で見定めている。
(……見たところ、普通のナイフか。体に何本か仕込んでるな)
問いにはタレンが代わりに答えた。
「貴様と同じく、信頼に足る強兵だ。我々にも〝本物の魔王〟の如く──敵軍を畏怖させる個の力が必要だと考えている。軍団の運用は前提だが、長引く戦乱で兵と民が疲弊するよりも先に、敵の足を竦ませる恐怖の象徴が欲しい」
「今の時代なら、そういう抑止力が有効ってことか。自信はあるか? シャルク」
「悪いが、まだ期待に応えるつもりはない」
シャルクは平然と返す。
「そこのヒグアレと違って、俺は傭兵なんでな。どれだけ安かろうが、前払いの報酬を受け取るまで、働くのは流儀に反する」
「分かっている。〝本物の魔王〟が死んだ〝最後の地〟の調査だな。シャルク。調査報告が揃うまでの間、ある程度は自由に待機していても構わん」
「はははは。まさか、そうやっていつも逃げてるわけじゃないよな?」
「──そっちこそ、まさか死人ならタダ働きするとでも思ってるのか? 確かめたいなら、お前さんが今、俺が動く分の金を払えばいいだけの話だ。二重契約くらいは目を
「いいね。口の減らない奴は嫌いじゃない。そっちのアンタは……」
話しながら、ダカイは卓上の皿に載る果実を一つ取る。紅果だ。それをヒグアレへと放る。
「……妙に静かみたいだけど。
「紅果は食べません」
拳大の紅果は、手を離れた直後の地点で静止した。そのまま落下する。
(へえ)
ダカイは内心で感嘆した。卓上に落ちた果実は形を保ったままだ。影すら見せぬ斬撃。あまりにも鮮やかに切断されたために、まだ切断面が離れずにいる。
「力を見たい、とのお申しつけであれば」
紅果が割れた。二つ、四つ、八つ。その断片が急速に腐食して溶ける。
蔓じみた〝腕〟のそれぞれが短刀を握って、遠隔の空中を三度切断したのであった。しかも、その刃の尽くが致死の猛毒。
「今、見せましたが」
タレンは獰猛に笑い、柔らかに数度手を打ち合わせた。
「見事だ」
彼女の支配する新公国は、力だ。独立によって
このリチアに集うのは、そうした一握りの、
ヒグアレの動きに注視していた
「……なるほど。
まさしく人の身では為せぬ異形の剣術。それが
「いいえ」
十四年もの間、ヒグアレの力の限界を見誤った者達が、その命を落としていった。
この修羅の地平において究極の一つであるということは、常人の認識から遥かに──想像の領域からさえも遥かに隔絶した怪物であることを意味する。
「四十二本あります」
それは死地にて散った膨大な流血に研ぎ澄まされた、決闘の技を持つ。
それは生命である限り抵抗の
それは異形の肉体にて極めた、常軌を逸する無量の
全てに従いながら何者にも支配されることのない、最も自在なる奴隷である。



