一節 修羅異界
十.静かに歌うナスティーク ①
輸送作戦としては大掛かりではあれ、本格的な軍事行動には遠く及ばない。この動きには他の官僚も関与してはいない。戦争回避のためのタレン暗殺は、ほぼ彼の独力の采配で成功させる必要があった。
山沿いの小さな市である。最後の貨車が入り終えた頃には日が落ちきっており、淡い
「さすがに大荷物は足が遅いな。この速度なら到着まで三日半ってところか。ふん。──クゼ。隊の全員分の寝床はあるのか」
「ベッドだけなら、〝教団〟の救貧院に空室があると聞いていますがね。食事については……ま、無理なのはご存じでしょう。ヒドウ卿」
クゼと呼ばれたその男は、二つ目の名を〝
三十の後半に差し掛かる、目の光の薄い男だ。かつて全土にその版図を広げた〝教団〟に属する聖騎士であり、黒く丈の長い祭服は、商人達の風体の中にあって一際浮いている。
世界創生の
「……俺のとこの兵が、〝教団〟に飯をたかるなんて情けない真似するか。食料品は持ち込みの荷で賄うつもりだ。少々行程が遅れようが、商人どもには使ったシーツの洗濯もやらせる」
「ふへへ。そいつはありがたいですね。
「俺にその手の世辞が通じると思うのか?」
「おおっと。そう聞こえたんなら、すいません」
「はっきり言っておくが、お前を使うことに決めたのは、単に実用上の問題だ。今回の護送対象は見た目以上に危険だからな。表面上は
「それで交易隊に偽装ねえ。護送対象に、そこまで頑張って隠し通す価値があるってことですかね」
「そう思っていればいい。……で、お前の方はどうだ?」
ヒドウは傘を差したまま、鋭い視線だけをクゼに向けた。
「この護送任務を受ける報酬以上の
「……暗殺されるって心配はしないんですかい。俺は〝教団〟の始末屋ですよ」
「そういう真似をやらかす馬鹿じゃないことくらいは確かめてあるに決まってるだろうが。そうじゃなきゃ、俺もわざわざ出てこない」
事実、本命であるこの交易隊に
「ふへへ。お優しい方ですね。あー……こいつはお世辞じゃなくて」
クゼは情けなく苦笑した。町から見える夜の街道には、交易隊の光が列をなして流れている。
その光景をぼんやりと眺めながら言った。
「うまいものでも食わせてやってくれませんか。子供達に」
「……ああ?」
「俺達の……〝教団〟側に立ってほしいなんてのは、今の情勢じゃあ無理な頼みだってことは分かってます。……でも立ち寄った町の孤児どもくらいには、いい思いをさせてやりたいじゃないですか。ここの教会に寄るのも久々なんです。おじさんに、格好つけさせてくれませんかね」
「そいつは無理だな。そもそも、俺は夜のうちにこの市を離れるつもりだ」
若き文官は懐を探った。上等な革製の財布を、不機嫌な表情のままクゼに放る。
大きな手が財布を受け止めると、詰まった金貨の重みが音を立てた。
「──お前がやれ」
だがきっと、
「……ありがとうございます、ヒドウ卿。あなたに
「やめろ。賄賂を渡してくるどころか、ここまで恥ずかしげもなく金をせびった聖職者は初めてだよ。直接話してみてつくづく思うが、お前……」
ヒドウはクゼの姿を見た。闇夜の中では、クゼの長い黒衣は
鍛え上げられた優秀な戦士であろうことは文官の身でも理解できるが、彼が単身で殲滅してきたという魔王軍や〝教団〟排斥の過激派の数は、それだけでは一切説明がつかない。常にただ一人で戦っているのだという。戦闘能力の正体を知る者も皆無だ。
「……本当に強いんだろうな?」
「ふへへ。もちろんですとも」
「俺には天使がついてますからね」
◆
雨音は大きくなりつつあって、
ヒドウと別れた後、クゼは町外れの壁のひび割れた建物の前に到着していた。救貧院を一人で切り盛りしていた神官は小二ヶ月前に肺炎で倒れ、隣の大きな市で治療を受けている最中だと聞いている。
彼らを出迎えたのは、十八になる若い神官見習いの少女であった。
「クゼ先生! 何年ぶりですか」
今の時間まで家事を続けていたのか、彼女は薄汚れた使用人服のままだった。六年前とは違って短く切り揃えられた髪を、クゼの大きな掌が撫でた。
「ふへへ。ただいまリペルちゃん。何年ぶりかなあ。お客さんが多くてさ、迷惑かけるね」
「いいえ、全然! アニダ先生も、こんな時に限って病気しちゃうんだから! 昔からあの人、間が悪くって……」
「知ってる知ってる。お茶でももらっていい? 俺はいいけど、もう一人いるからさ」
「もう一人?」
リペルが、繰り返して呟く。クゼの背後から、細身の少女が顔を出した。露出の多い衣装を纏い、大きく開いた背中からは、脊髄に沿って細い糸のような器官が何本も伸びている。
少女は前髪に隠れていない片目で笑った。
「こんばんは。はじめまして。えっと、リペルちゃんかな」
「……はい。リペルです。二つ目の名は
「
無遠慮に玄関口に座って、濡れた長靴下を脱ぐ。ショートパンツから伸びた露わな白い素足を見て、神官見習いのリペルは目を逸らした。
「
「護衛って」
「まあね。ここ最近はもう、寄付だけじゃ子供達を食わせていけなくてなあ。ふへへ。おじさんも教えに背かない範囲でね、こういう仕事もやってるわけ」
「クゼ先生。それ本当にお仕事なの? こんな女の子相手に……」
「おっ。まさかリペルちゃん、嫉妬してくれてる? 嬉しいねえ」



