一節 修羅異界
十.静かに歌うナスティーク ③
食べ終わって遊んでいた子供の一人が、笑いながらクゼの肩を小突いた。
「がおー! 我が名はヴィケオン! おそれよ!」
「ふへへ。竜退治ごっこなら、おじさんが
「俺の役は?」
「じゃあ、
「わあーっ! 負けないぞ! 我が名はロスクレイ!」
子供に混じって遊びはじめたクゼを見つめて、リペルはやや寂しげに溜息をついた。
「変わらないな。クゼ先生は」
「ふうん。クゼは、昔からああだったの?」
「……そう。のらくらしてて、威厳なんて全然なくて、一度も怒ったことがなくて。〝教団〟の色んなことを抱え込んでるのに、いつも笑ってる……」
リペルは、クゼがこれからしようとしていることを知らないのだろう。彼が始末屋としての刃を振るうことで、新公国の魔王自称者を殺そうとしていることも。今も
ニヒロは何も言わずに、子供とじゃれあう黒騎士の姿を、リペルとともに眺めることにする。
風もなく何かが通り過ぎたように、
(──天使か)
ふと、クゼが語っていた言葉を思い出している。
◆
子供達の声に満ちていた夜も、やがて眠りとともに静まり返っていく。
クゼとニヒロの二人は、寝室前の廊下を確認していた。
「ニヒロの部屋に入れる経路は廊下だけ。窓のない部屋にしてもらったから、俺が廊下に長椅子を運び込んで休むことにする。今夜はとりあえず、それで安全だ」
「クゼは相変わらず紳士だね。私は別に、同じ部屋で寝てくれたって構わないんだよ?」
「ふへへ。おじさんをからかっちゃいけないよ。今夜もきっちり働くから、安心して寝ていな」
「もし
「……俺は無理だね」
クゼは静かに首を振って、そして何もない空中を見つめた。
旅の間、幾度か繰り返した仕草だった。
「だけど……ヴィケオンが相手でも、俺はきっと勝つさ」
「ふふ。そうだといいね」
護衛対象が寝室へと戻った後、クゼは廊下で夜を過ごす準備を始めた。長椅子に毛布を敷き、大きな瓶の内に炎を灯し、夜の空腹を紛らわせるための茶葉と水差しとを確かめる。
「……うん。みんな、元気そうでよかった」
虚空の何者かに向かって語りかけているようであるが、その相手は見えない。
「四年くらい前かな。ここで暮らしていたことがあってさ。窓の建てつけの悪さとか、やっぱりまだ変わってないんだよな……」
〝本物の魔王〟が死んでも、彼の守るべき〝教団〟は窮状の一途にある。全てを覆すために残された道は一つしかない。
(ただ一人の〝勇者〟を決める戦いか──)
ふと、クゼは頭を上げる。足音が聞こえた。
廊下の向こうに目を凝らすと、粗末な薄い夜着を纏ったリペルの姿が見えた。
「どうしたのリペルちゃん。夜遅くにさ」
「……クゼ先生」
ニヒロの眠る寝室の方向を気にして、リペルはクゼの側へと寄った。
「お願いがあります。私達を助けてください」
「……それって皆の前では言えないこと?」
彼女の真剣な
「新公国に協力してくれませんか」
「……」
クゼは沈黙した。
新公国の手は広い。そのようなことがあったとしても、きっとおかしくはない。クゼが
「この前、第六将の部隊がやってきた後……新公国の人達が、調査のためにやってきたんです。新公国に協力するなら、この教会にもちゃんとした支援をしてくれるって……! 子供達も、寒い部屋で震えながら眠らなくてもよくなるって! 私は戦えないけど、もしクゼ先生なら……クゼ先生は、とても強いから……タレン様の目にもきっと
「……ふへへ。そっか」
──彼女は、クゼが
「やっぱり
クゼがまさに、新公国の
「……君の助けにはなれない。俺の救い方じゃ、駄目なんだ……悪いね、ホント」
「クゼ先生……」
彼女が次の言葉を口にするよりも早く、強い風切りの音が
矢だ。戦闘者の感覚で、クゼはそれを反射的に回避している。
「……!」
廊下の向こう、リペルの背後に潜んでいた伏兵が頭を狙撃していたことが分かった。
リペルがこの場まで連れてきた工作員に違いなかった。殺そうとしている。クゼは咄嗟に床を転がり、天使の図象の大盾を取った。
「ど、どうして……待って!」
リペルが困惑とともに叫んだ。
「この人は殺さないで!」
「射線の邪魔だ! その男は
新公国の工作員は、無慈悲に断言した。話しながら次の矢を
(最初から、新公国に探られていたのか。それも、本来の狙いはこの輸送部隊じゃなかった。第六将とやらが余計な動きをしたから、そいつを警戒して新公国の調査兵がここを拠点に潜んでいたんだ……くそっ)
切れ者のヒドウとて、第六将が独自に動かした部隊とのかち合いまでを予見することはできなかったはずだ。各々に独立した裁量を許され、同等の権限を持つ
そもそもリペルのいるこの教会の救貧院を宿営地として提案したのは、クゼ自身だ──
「ひどい世の中だよ、まったくさ……!」
「商人共の身分も偽装だな、
キリ、という鈍い音が鳴った。
「ち……!」
背後から接近していた別の工作員の短剣を、右腕の篭手で滑らせ躱した音だ。
同時に大盾を壁の如く前方に向け、弓兵の射線を遮っている。
「クゼ先生!」
リペルが叫んだ。彼女が悪いわけではない。リペルもまた、大切な者達のために彼女なりの最善を選んだだけだ。
「大丈夫だ!」
連射される矢を、盾で受けながら叫ぶ。短剣の兵は蛇のように低い死角からクゼの臓器に狙いを定めて攻めかかっている。訓練を受けた暗殺者二名の連携にクゼが対応できているのは、防戦に徹しているからこそだ。
さらに二人、三人の兵が音もなく現れる。施設を預かるリペルに新公国との繫がりがあったのだ。敵が隠れ潜む余地はいくらでもあった。
「……頼む。殺さないでくれよ……!」
あるいは、異変を察知して上階の
「うお、おおっ!?」
冷や汗を流しながら猛攻を凌ぐ。防御の合間から突き込まれた短槍を、辛うじて脇を通す形で避けた。狭い廊下では得意の大盾を取り回すことも困難である。
短槍の兵士が仲間に向けて言った。
「受けが上手いな。
「……上階の商人が
「了解」
前方に二名。後方に四名。前後両方向から、呼吸を合わせた刺突が迫った。強固な防御技術を持つ者への定石。
クゼが最もしてほしくない攻撃であった。
「ち──」
大盾が揺れる。篭手が軋る。軽鎧が裂かれ、あるいは蹴りの靴底が穂先を制する。
一人の限界ある
そのはずだった。
長剣を握っていた兵が、倒れた。
「──」
周囲の兵が警戒し、輪を広げるように一斉に下がった。その内の誰かは毒物だと考えたのだろう。別の誰かは祭服に隠した暗器による攻撃であると判断したのだろう。
少なくとも長剣の兵はうつ伏せに倒れたままで、起き上がることはなかった。
絶命していた。前触れもなく。



