一節 修羅異界
十.静かに歌うナスティーク ④
「……だから。殺さないでくれって言ったんだ」
始末屋は、覇気のない笑いを浮かべた。少なくとも今の一瞬、彼が何がしかの反撃を行う余地は一切なかったはずだった。
「距離……距離を取って射撃だ」
兵の一人が呟く。不可解な事態への恐怖を抑え込んでいる。周囲の者も頷き、それに従いつつあった。クゼは軽薄な笑みを装いながら、掌中の冷や汗を隠す。
(……飛び道具の連射速度なら、俺の盾でどうにか防げる。あとは時間を稼ぎさえすれば……)
果たして、兵は弓を標的へと向けた。廊下の隅に座り込んで動かないリペルに。
「……ッ!」
クゼは矢の射線へと飛び込んで、彼女を
引き金が引かれる。その寸前、代わりに射手の方が倒れた。死後の
「ナスティーク……!」
クゼが、この場にいない者の名を呟く。彼が無防備を晒した瞬間を逃すことなく、短剣の兵が殺到した。一人の刃は篭手に防がれたが、残りの二名がやはり不可解な要因で倒れた。
「こいつ」
工作員の数は、今や三名にまで減っている。
不気味だった。地の利を取った廊下での戦闘は、暗殺作戦に長けた新公国兵が一方的に有利で、事実そのように戦闘の流れは推移していたはずだ。
反撃不可能な猛攻も、意識の虚をついた奇襲も、意味不明な死によって阻まれ、その原因が誰にも分からずにいる。
「ふへへ……」
「こいつ、何だ」
間違いなく、一級の防御技術がある。それでも、条理を逸脱するほどの技ではない。たった一人の聖騎士が、それでも〝教団〟最強の始末屋とされている理由が、どこにあるというのか。
「……習ったことはなかったか。小さな頃に、教会で授業を受けたことは?」
壁の如き大盾が〝
抽象化された翼と光。姿なき概念。〝教団〟の教えにある、この世の始まりに
「悪いことをすると──天使サマの罰を受けるってさ」
「う、うおおおッ!」
三名のうち二名が、恐慌のまま突撃した。クゼはやはり大盾の防御で制圧を試みようとした──その時に、横合いの扉が開いた。影が跳んだ。
「ギッ、コッ」
触手先端の金属端子を神経に差し込まれた兵は、不随意の反応で短剣を投げ、逃げ去ろうとしていた残る一人の兵の後頭部を正確に撃ち抜いて殺した。彼自身も、その動きを最後に呼吸を止める。
目視さえ間に合わぬ、流れるような一動作の内の出来事だった。
「くすっ。危ないところだったね、クゼ。大丈夫だった?」
「……」
戦闘が終わり、惨劇がこびりついた廊下をクゼは眺めた。死んでしまった者達を見た。眠るように死んでいる者も、凄惨に切り裂かれた者も、二度と戻ることはない。
そうした命も救いたかったと願うことは、クゼの傲慢なのだろう。
「……ああ。ありがとね。ニヒロ」
「どういたしまして」
彼は、もう一人残された少女の方へと向かった。
座り込んだままのリペルは、顔を覆っていた。
「ごめん……ごめんなさい、クゼ先生。私は、本当に、先生が──仲間になってほしいって。こ、殺すつもりなんて、私は」
「分かってる。今のは新公国の連中が勝手にやったことだ。リペルちゃんは何も悪くないさ。孤児の皆を食わせてやるためだ。俺だってそうした──」
「な、なのに、私」
「……誰の命令でやったの?」
ニヒロは、無慈悲な死者の目でリペルを見下ろす。糸の触手は
「
クゼは歯を食いしばった。リペルがずっと座り込んだまま動かないのは……声が震えているのは、罪悪感や恐怖のためだけでないと理解していた。
「……。リペルちゃん。お
「ごめんなさい。こほっ、ごぶっ……」
「腎臓を貫通してるね」
ニヒロが淡々と診断する。閉所での激戦の流れ矢が、リペルの
クゼに付きまとう力は、クゼ自身しか守ってくれない。そして力なき者は、あまりに弱い。
「……みんなが、幸せになれたら……私も、クゼ、先生、みたいに……」
「……リペルちゃん。ごめん。俺こそ、ごめんよ」
〝教団〟は滅びゆく組織だ。利用され、そして捨てられていく。
◆
翌日、リペルは埋葬された。
「ニヒロは、一度死んだことがあるよな」
朝日を浴びる白い墓を見下ろしながら、クゼは口を開いた。
「……一つだけ、聞きたいことがあったんだ。死んだ時に、天使を見たことがあるか?」
「〝教団〟の言う天使は目にも見えないし、何かを話しかけてくることもないんだろう? まして死に際に天使が迎えに来るだなんて、〝教団〟の教えにもないじゃないか。誰かが勝手に付け加えた想像だと思うよ」
「まあ……そうだろうね。俺も、実はそう思ってる」
クゼは虚空を眺めた。彼らを高くから見下ろしている、青い空を。
「だけど天使はいるんだ」
その視線の先にいる。この世で、クゼただ一人にしか認識できない。
純白の髪。純白の衣服。純白の翼。
柔らかな短髪と細い体躯はまるで少年のようだ。彼女の表情はほとんど変わらない。何を思い、何故クゼに付き従っているのか、クゼですら確かなことは何も分からないでいる。
「……天使もさ。寂しがってるんだと思うよ」
それは、創世の時──数多の〝
失われた彼女達は〝教団〟の教えの中でも、その存在を語られるだけの伝説になった。
「クゼは、ずっと」
ニヒロはクゼの視線の先を追った。そこには空があるばかりで、何もない。
「──天使を見ていたのかい?」
「ふへへ。どうだろうなあ」
きっと死の権能を司る天使であったのだろう。彼女の携える短剣〝死の牙〟は、掠り傷であっても速やかに確実な死をもたらす、絶対致死の魔剣だ。
「……それでも、天使サマの方は俺達を見ているんだ」
天使は、他の誰も救ってくれない。彼女は
だからクゼは武器を持たない。自分の信じる天使である彼女に、誰かを殺させないように。大盾で死を遠ざけるだけの、そんな戦いを選んだ。敵の命を守るための盾だった。
「そうとでも思わなきゃ、救われないからさ」
常識を持つ者なら、狂信者の妄想だと断言するような話だろう。それでも、そのあり得ざる異常性だけが、
「名前はあるの?」
「……名前?」
腰の後ろに手を組んで、ニヒロはクゼへと向き直った。
「天使の名前だよ。もしもクゼが天使を見ているなら、名前だってあるはずだろう?」
「……ふへへ。そっか。こういうのは、恥ずかしくて……誰にも教えたことはなかったな」
土の下で眠るリペルにも、教えたことはなかった。
「知ってるよ。名前は──」
それはただ一人を除いた、この世の誰にも知覚されることはない。
それは非実在の意識体であり、如何なる手段でも干渉されることはない。
それは創世のその時から続く、生命停止の絶対の権能を保有している。
ただ静かに訪れ、目に見えぬまま全てを奪っていく、死の運命の具現である。



