二節 新魔王戦争

十二.不信 ①

 この日、レグネジィが中央の尖塔へと帰還した時には、カーテの部屋は闇に包まれていた。彼女には元より照明の類は必要ではないので、レグネジィの目に在室を示すためだけに火を灯す。だが今は、タレンと夕食を共にしている頃だ。

 レグネジィはいつものように窓から入り込む直前、滞空状態のまま止まった。


「動くな」


 低く警告を発する。

 部屋の中には気配が存在した。カーテのものではないことが分かる。


「──動いたら殺す」

「俺だよ」


 聞き慣れた声が返った。

 かささぎのダカイ。タレンの右腕として長く暗躍を続けている、得体の知れぬ無頼の〝客人まろうど〟だった。レグネジィはこの男を嫌悪している。


「そう身構えんなよ。こっちも捜査中でね──タレンちゃんの許可はもらってる」

「僕は許可を与えた覚えはない。マヌケな剣士風情と仲良くするつもりもない」

「剣士、ね。ははは! 奇遇だ。俺も鳥竜ワイバーン風情と仲良くできる気はしないよ」


 室内の闇の中で、ダカイはわざとらしく両手を上げている。この男ならば、無論この体勢からでも攻撃に移れるのだろう。高速発動を誇るレグネジィのじゅつより速く……裸足の両足までも、手の指先の如くに操る魔人だ。

 レグネジィに視線を向けることなく、ダカイは唐突に尋ねた。


「日記を知っているか?」

「……日記だと」

「この世界じゃあまり流行はやっちゃいないか? 毎日の記録を帳面に残すんだ。カーテちゃんがそいつをつけていたことは知ってたか?」


 知っている。彼女は、レグネジィとの思い出を綴っているのだと語っていた。


「──知らないね。人間ミニアのバカはそういう遊びをして喜ぶのか」

「そうか? だけどカーテちゃんはそれで喜んでたみたいだな」


 ダカイは動かないままで、机上に置かれた一冊の書物を目で示す。彼は先程まで、これを読んでいたのだ。レグネジィは窓枠に止まって、ダカイと書物を睨みつけた。


「それが、どうした」

「こいつに文字は書かれていない。一定の間隔で穴が開けられて、手触りで分かるようになっている。あのお姫様が、お前と話した時間や、外の天気や……そういうことを記号にして、こいつに書き込んでいたとしたらどうする。現にお前も、記録できるとは思ってなかっただろ?」

「……」


 ──目も見えないのに、どうやって文字なんか書ける。


 鳥竜ワイバーン軍が出撃を終えた後は、レグネジィは必ずこの部屋へと戻ってカーテと話をしている。盲目故に何も見ることのできない彼女に、時や外の光景を伝えている。

 出撃の日と、帰還した時刻。そこに相手の軍勢の規模の情報が加わるのだとしたら、そこから防空網による対処の所要時間を知ることもできる。


「とはいえお前も、軍の規模まで話すほどかつじゃないよな。その情報はこう側が観測して持っているはずだ。こういうやり口を差し向けた張本人だろうからな」

「──それがどうした」


 鳥竜ワイバーンの長は、怒りの色を強めた。めいせきな知性を持つ彼はダカイの発言が意味するところを理解してしまっている。この男が捜査している内通者の正体が何者なのか。


「カーテに……何か、してみろ。九つに引き裂いて、殺す」

「おっと」


 ダカイは薄く笑って、レグネジィを横目で見る。


「俺とやって勝てる気でいるのか?」

「マヌケめ」


 レグネジィが翼を広げると、ざわざわと、鳥竜ワイバーンのものではないの羽音が鳴る。

 彼は眼前の〝客人まろうど〟を観察している。掲げている両手に武器は持っていない。腰に吊った魔剣に指をかけるよりも、レグネジィのねつじゅつが速いか。


(……いや)


 かささぎのダカイの真意は、表情からでは読み取れない。欺き、あるいは暴くことにかけて、リチア新公国でこの男以上の怪物はいない。


「なあレグネジィ? 前々から、一つ疑問があったんだが──お前の群れ、あれは何だ?」

「……僕の、群れがどうした」

「お前の群れも、一度〝本物の魔王〟に滅ぼされてるんだよな。カーテちゃんの目が見えなくなった時と同じ……たった四年前かそこらの話だ。どうやったら四年で増えるんだ?」

「それを知ったところでどうする。人間ミニアごときが」


 この男は常に長袖の黒衣だ。見たことがないだけで、袖の内側にとうてき用の暗器を仕込んでいることも考えられる。尋常の兵士が行う限りはレグネジィの速度で容易に対処可能な小細工であっても、ダカイが繰り出せばそれで致命傷になり得る。

 例えばダカイの裸足は、じゅうたんから僅かに浮いてはいないか。その下にごく小さな木片でも隠しているのなら、レグネジィがこの場を飛び去るよりも速く喉を貫くことが可能だ。脚の力による投擲であったとしても、ダカイにとっては木片すら十分すぎる殺傷武器になる。

 それどころか、レグネジィが認識しているダカイの反応速度は、この男の確かな上限であっただろうか。レグネジィの詠唱が終わるよりも早く魔剣の柄にダカイの指が触れることができるのならば、無限速の反応。今、ここでレグネジィの切り札を使うべきか──


「お前は……」


 レグネジィが口を開いたのを見て、ダカイは堂々と両手を下ろした。


「安心しろ。まだ何もするつもりはないさ。カーテちゃんにも、お前にもだ」

「カーテへの尋問なら、僕が立ち会う」

「はは。だから意味がないんだよ。こんな大胆な手を仕掛けるくらい気合の入った工作員だとしたら、どのみち口を割りやしないだろうし──」


 盗賊は肩をすくめた。


「もしも誰かに吹き込まれたんだとしても、見えたわけがないんだしな」


 ひらひらと手を振って、ダカイは姿を消す。夜の闇に紛れるようであった。

 その場に残されたレグネジィは、沈黙したままカーテの日記を見下ろしている。

 表紙を見れば、その内容について楽しそうに語っていた少女の笑顔を思い出すことができた。



(……僕は捨てない)


 彼の率いる群れは、もはや軍隊と化して、野生の在り方には戻れない。新公国の庇護が必要だ。

 群れの生存の責務か。あるいはこの世で唯一の心の安寧であるのか。


(僕は正しい選択をしている。いつでも)




 豆と麦を数種の香辛料とともに煮込んだスープ。新鮮な馬肉の燻製。白く炊き上げたもちがゆ。果実の蜜のソースをえた生野菜。そして、遠くイターキ高山から取り寄せた白どうしゅ

 いましめのタレンは決して華美やぜいたくを好む将ではなかったが、義理の娘との食事に限っては、常に立場に相応しい料理を手配するよう心がけていた。

 美食は、視力を閉ざされたカーテが未だ感じられる幸福の一つであるからだ。


「それで……レグネジィ、出ていくときに私の肩掛けを足に引っかけていって。ひどいでしょう? 私、どこになくしたかなんて見えないもの。随分部屋を探してしまって」

「それは災難だったな。レグネジィのことだ。あれも随分ふてぶてしく開き直っただろう。許してやるといい」

「分かっているけど。ふふ」


 タレンは、燻製肉をカーテの皿へと取り分ける。カーテもそれを理解していて、見えないままで器用にフォークとナイフを使って切り分け、口に運ぶ。

 タレンは殊更にカーテを溺愛しているつもりはないが、そうした食事の作法や歩き方、階段の昇降や風呂の入り方に至るまでの日常の所作を見るたび、心中で感嘆している。

 カーテは極めて物覚えのよい娘だ。教えられた物事を記憶し再現することにかけて、異能と言っても過言ではない吸収力があった。

〝本物の魔王〟の恐怖に心身を衰弱し、発狂同然であったカーテがここまで立ち直ることができたのは、彼女が自身の持ち得る力で、自らの日常を再構築することができたからだ。


「……おいしい」

「そうか。いい時代になった」


 短く答えて笑う。〝本物の魔王〟の時代、タレンがカーテの年であった頃には、彼女は既に兵卒として戦争に出ていた。配給される食糧はさんたんたるもので、いつか実の子を産むなら、決してこんなひもじい思いはさせまいと誓ったこともある。戦時中の負傷がもとで、それも叶わなくなった。

 ──戦火の時代。狂気の時代。〝本物の魔王〟が死んだ今、じんぞくはその呪いを抜け出すことができただろうか。


「ねえ、お母さん」

「いつも言っているだろう。その呼び方はよせ。お前の実の母に悪い」

「……ん。あの……レグネジィに危ない真似をさせたくないって、お願いしたくて」

「危険というなら、あれの任務はいつでもそうだ。それとも、特別気にかかることでもあったか?」

「……また、戦いが始まるの?」

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影