より身代わりの妃候補 ①
ヘクター・ケイフォード伯爵。
言わずと知れたこの地の領主の名前だが、なんと彼が、エルシーの父親だったらしい。
らしい、というのは、エルシーは今日まで、父親の名前を知らなかったからだ。
エルシーは五歳の時まで家族と暮らしていた。その記憶は
はっきり覚えているのは、修道院に連れてこられた際に、父親らしき男から言われた一言だけだ。
──お前は死んだ娘だ。
どういう意味かはわからなかった。
ただ、以来一度も家族が会いに来てくれなかったことを考えるに「死んだと思って捨てることにした」という意味だったのだろうかと推測している。
縁切り宣言に等しい発言をして捨てたエルシーに、どうして今ごろ、父親を名乗る男が会いに来たのだろうか。
頭の中が「？」でいっぱいのまま、午後になって、エルシーはカリスタのあとをついて院長室へ向かう。
ヘクターは院長室にいるらしい。
院長室が近づくにつれて、胸の中に緊張が広がっていく。その中に小さな期待を抱いてしまったのは、心の中で「家族」というものに憧れを抱いていたからかもしれない。
近所の子供が、「お父さん」「お母さん」と呼んで駆けて行くのを、うらやましいと思ったことがあるのは事実だった。
修道院の暮らしに不満はないし、シスターになると決めたのはエルシーだ。
カリスタが言うには、エルシーは事情があってこの修道院から出してはいけないことになっているらしく、生涯ここで生きていくことは決定事項だったけれど、シスターになると決めたのは間違いなく自分自身。だから、今更ここから出たいとは、これっぽっちも思っていない。
でもやっぱり、「家族」には憧れを持ってしまうもので、エルシーは無意識のうちにどきどきと高鳴る胸を押さえた。
そんなエルシーに、カリスタは扉を開ける前に振り返って、申し訳なさそうに言う。
「エルシー、ここを開けたらあなたは傷つくかもしれないわ。でも覚えておいて。わたくしたちは全員あなたの味方よ」
その言葉で、エルシーの心が急速に冷めた。
エルシーの父親は、エルシーに会いたいからここに来たわけではないのだと悟ったからだ。変に期待をすればエルシーが傷つく。それがわかっているから、カリスタは一言
「大丈夫です」
どうして少しでも期待してしまったのか。十一年間一度も会いに来なかった家族が、エルシーを温かく抱擁してくれるはずはないのだ。
（この向こうにいるのは他人。わたしはシスターになるの。だから、大丈夫）
どんなに冷たくされても、傷ついたりはしない。
だって、血のつながった家族がいなくたって、ここのみんながエルシーにとって大切な家族だからだ。
エルシーが自分に言い聞かせて頷けば、カリスタがそっと院長室の扉を押し開けた。
さほど広くないが日当たりのいい院長室の応接用のソファに、中肉中背の、四十過ぎほどの男が座っていた。彼がエルシーの父親のヘクターだろうか。
男はソファに座ったままじろじろとエルシーを
さらり、と銀色の髪が揺れた。
「さすがによく似ているな」
男は言った。
ようやくカリスタがエルシーに座るように言ったので、エルシーはカリスタとともに男の対面に座る。
「エルシー。こちらがヘクター・ケイフォード伯爵ですよ」
わざとだろう。カリスタは「あなたの父親の」という言葉は使わなかった。
エルシーは頷いて、静かに頭を下げる。
「……はじめまして、ケイフォード伯爵」
はじめましてと言ったのも、父と呼ばなかったのも、それが最善だと判断したからだ。けれどもヘクターはそれが気に入らなかったのか、片眉を跳ね上げた。
「院長、エルシーに私が父親だとは告げなかったのかね？」
カリスタはにこりと笑った。
「告げてはおりますが、こちらにエルシーを連れてこられた際、伯爵はエルシーとは金輪際縁を切り、二度と会いに来ることはないと、そうおっしゃいましたから。この子もあなたの意思を
エルシーは別にそういうつもりではなかったのだが、カリスタが言うことに異は唱えなかった。どちらにせよ、目の前の父親のことは他人と思っていた方があとあと傷つかずにすむ気がしたのは本当だからだ。
ヘクターはその返答も気に入らなかったらしい。
エルシーに向きなおり、さも当然というように命じた。
「エルシー、お前は今すぐこの修道院を出て我が伯爵家へ戻るように」
「なんですって？」
声を上げたのはカリスタだ。前もって聞いていなかったのだろう。きつく眉を寄せて、なじるようにヘクターを見る。
「おっしゃる意味がわかりかねますが。エルシーとは縁を切るとおっしゃったのは伯爵でしょう。ご説明願います」
カリスタはエルシーを守るように彼女の肩に手を回した。
ヘクターはじろりとカリスタを
「親が娘を迎えに来たというのに、理由を求めるのか？」
「ええ。当然です。ここに入った時点で、この子はわたくしの子も同然ですもの。第一、あなたがたがエルシーをここへ連れてきた理由をわたくしは忘れておりませんよ。双子だから縁起が悪いと言って、双子の片割れのエルシーを捨てることにしたと、そうお聞きしました。五歳まで待ったのはより器量のいい方を手元に置きたかったから、そうでしたわね？」
エルシーは知らなかった。
（そう言えば……妹がいた気がするわ）
あまり一緒に遊んだ記憶はない。部屋も別々にされていて、食事のときにしか顔を合わせたことがなかったけれど、エルシーには確かに妹がいた。双子だったのは知らなかったけど。
つまり、エルシーが捨てられたのは、双子の妹と比べて出来が悪いと判断されたから、そういうことなのだ。
怒りも悲しみもわかなかったが、そんな理由で人は簡単に子供を捨てるのだと、エルシーは
ヘクターは苦虫をかみつぶしたような顔をして、はあ、と息を吐いた。
「今更取り繕っても無駄だな。わかった」
説明する気になったらしい。
きっとよほどの理由があるのだろうと、エルシーが黙って聞く姿勢になると、ヘクターは言った。
「セアラ……お前の双子の妹が、陛下の
妃候補とはなんだろうかと思っていると、ヘクターが簡単に説明してくれる。
なんでも、新王が立った際に、王の妃を決めるため、国内から十三人の妃候補が選ばれるらしい。そしておよそ一年間、十三人の妃候補たちは王宮で生活して、新王はその中の一人を正妃に選ぶそうだ。
戴冠の際に、すでに王太子時代からの妃を得ている王もいるそうだが、即位後は彼女たちは基本的には側妃として扱われる。正妃は必ず、十三人の妃候補から選ばなければならないというしきたりで、それはいろいろな政治的な理由があるそうだが、エルシーにはよくわからない。
ちなみに現王は二か月前に王位を継いだばかりの二十歳で、誰一人として妃を
そしてその十三人の妃候補の中に、エルシーの双子の妹であるセアラが選ばれた。
ここまではわかったけれど、それでどうしてヘクターがエルシーを迎えに来たのかが理解できない。
カリスタも同様だったようで「だからなんだというのです？」と冷ややかに訊ね返した。
ヘクターは面倒くさそうに続けた。
「セアラが選ばれたが、セアラは先日階段から転がり落ちて顔に大きな
「おふざけになっていらっしゃるんですか？」
カリスタが怒りもあらわに言った。
エルシーは逆に
「身代わり期間が終わればここに返してやる。少しの間のことだ。娘なら親への恩を返すつもりで、協力するのが当然だろう」
