二.相棒との出会い ①
気づいたときには目の前に見慣れた部屋があった。公爵家にあるアルの私室だ。ぼんやりとした感覚は、今見ている光景が夢だということをアルに伝えている。
「家を離れてからまだ一日も
ぽつりと呟いて苦笑する。面白味のない光景だと思っていると、一瞬で視界が切り替わった。次に見えたのは学園内の光景だ。
「ああ、嫌だな。見たくない……」
見たくないと思っているのにその光景は変わらずアルの前に存在し続けた。アルの過去の記憶を
ある侯爵家の子息が取り巻きを連れてアルの前に現れる。その蔑むような眼差しと皮肉気に歪んだ表情は記憶にあるままだ。何事かを話しているが、アルの耳にはその言葉は聞こえない。しかし、その時言われた言葉はしっかりと記憶に残っていた。まだ十代前半で、他人に優しさを期待しては裏切られて傷つくような幼さがある頃の記憶だ。
アルが父親である公爵に冷遇されていることは学園内で知れ渡っていて、度々貴族の子息たちに蔑まれて悪口を言われた。学園に入学して初めの頃は悪口を言われる度に傷つき、家族以外からも虐げられる状態に疲れ切っていた。この日も侯爵家子息に過激な言葉で
その日のことを思い出して嫌な気分になり、アルはそっと目を閉じるように意識した。
ふっと周囲が揺らぐ気配がして目を開けるように意識すると、目の前に広がっていたのは見慣れた森の景色だった。アルは木の根元に座っているようだ。
「これは、いつのことかな? ……ああ、そうだ。今日は学園で嫌なことがあったから、冒険者ギルドで依頼を受けて、森に来たんだった。侯爵家のあいつ、なんで僕にあんなに辛く当たるんだろう。もう放っておいてくれたらいいのに……」
夢という感覚が薄れて、アルは目の前の景色を現実のものだと捉えるようになっていた。
アルは学園に入学してからすぐに平民として冒険者ギルドに登録した。一時的にでも貴族としての責務を忘れ、家や学園から離れられる時間を欲してのことだった。
「薬草の採取依頼を受けて、もう依頼分の採取は終わったんだよな」
何故か今日の行動を確認するように呟く。アルの横には薬草が詰められた麻袋が置いてあった。依頼分の薬草を採取し終えたので休憩をしようとこの木の根元に腰を下ろしたのだ。
自分の状態に納得したところで、予定通りお湯を沸かしてハーブティーを
クッキーを手に取って食べようとすると、少し離れた茂みから物音が聞こえた。僅かに魔物の気配がする。アルは周囲に結界を張っているので、この辺の魔物が襲ってきたところで何の問題もないのだが、低位の魔物にしては気配がおかしい気がした。
じっと茂みを見つめていると、黒い鼻先が茂みから出てきた。しきりに鼻を動かして匂いを嗅いでいるようである。茂みから出ている部分は次第に大きくなり、ついには顔まで出てきた。白いふわふわの毛を持つ狐だ。気配から考えると魔物なのだが、この辺りでよく見る魔物である
「君、お
言葉は伝わらないだろうがなんとなく話しかけてみると、大きな耳がピクリと動いた。目がきょろりと周囲を見渡して、誰に話しかけたのかと探っている。知性を感じさせる仕草だった。
「高位の魔物かな。白い狐の魔物と言えば
小声で呟くと狐の目が再びアルに向けられた。
「君、
聞こえるように言うと狐の雰囲気が変わった。アルに襲いかかろうとしているようだ。もし
「これ食べる?」
言った瞬間に狐はアルが張った結界のすぐ
「美味しい? それ魔の森産の果物を乾燥させたのを使っているんだよ。確かフランベリーっていう名前の果物だったはず」
『……旨い』
「え、……君
狐が当たり前に話してきたことに驚いて思わず聞くと、心外そうに牙を剝かれてしまった。でも、その仕草にアルを襲おうとする意思は感じない。どうやら、クッキーで餌付けして懐かれた気配がする。
『……我は
「へぇ、やっぱり
『うむ。大きいと森の中を移動するのに不便だろう? 我は変化で大きさを変えられるのだ』
思っていたより親切に教えてくれる魔物だ。
アルの前でふわふわの尻尾が揺れている。見るからに触り心地の良さそうな毛並みだ。アルは馬には親しみがあるが、こういう動物に触れたことはない。触ってみたいなと思いながら見ていたら、狐が人間染みたため息をついてアルの傍で伏せた。これは触れていいという合図だろうか。
「……柔らかいなぁ」
『我の自慢の毛だからな』
「そっか、
久しく触れていなかった自分以外の
感覚がぼんやりと鈍くなる。目の前を様々な光景が通り過ぎて行った。
アルのおやつの時間を察知したように現れる狐にブランと名付けた時のこと。ブランと一緒に森を探索してアイテムバッグを作った時のこと。辛いことがある度に、アルは森に行ってブランと楽しく過ごした。その時間はアルにとって自分の心を守るために必要なものであり、大切にしているものだった。ブランは魔物だからか感情に正直に言葉を話す。そこに遠慮はないし、アルに対する嘲りも哀れみもなくて、とても居心地のよい関係だった。
「……人間と過ごすより、森の中でブランと一緒に過ごせたら、もっと自由で快適な生活なんだろうなぁ」
ぽつりと呟く。まさか本当に実現するとは思いもしない願いだった。



