第3章 庭の改装は劇的に ①

 なんということでしょう。

 カーテンを開けると、そこにはふうこうめいな日本庭園が広がっていました。


「なっ、は……?」


 寝ぼけまなこをかっぴらく。強制おめざを食らった視界へと飛び込んできたのは、なんと言っても池だ。昨日まで空だったコンクリート敷きの窪みに、並々と水が張られていた。庭の三分の一に当たる面積を占める水鏡と化し、緑の木々を映している。変化は池だけではなく、所々に芝生が生え、壁沿いには落葉樹まで植栽されていた。

 煌めく朝日を反射する水面に架かる石造りの太鼓橋中央、山神が佇んでいる。一面ほぼ緑色の中で白い狼はよく映えた。


 窓を開けて縁側を下り、外履きを履く。鳥のさえずりが響く中、朝の澄んだ気配が漂う石畳のみちを歩き、山神のもとへと向かう。

 にたりと口角を上げ、得意気に迎えらえた。


「どうだ」

「こんなことできるんだ」

「我、山神ぞ」


 後ろにひっくり返りそうなほど胸を反らす。その隣に並び水面を覗く。乗り出した己の顔を映す水の下には、白い玉砂利が隙間なく敷かれていた。水深一メートルほどだが、随分近く浅く感じられ、生き物の影は見えない。

 池に水を満たすのみならず、植栽、砂利敷きまで行ってしまうとは。げに恐ろしき、神の力。家の持ち主から庭はお好きにどうぞ、と許可をもらっているため、問題はない。何より、ここまで立派な庭園にしてもらえば、文句などつけようもないだろう。

 偉そうな山神の体から風が放たれた。走る風に水面が波打ち、水鏡が消えゆく。それを見つめ、湊が感嘆の息をついた。


「すっげえ」

「そうだろう、そうだろう」

「綺麗な水だなー」

「山から引いてきた」

「とんでもねえ」


 視線をそのまま横へとスライドさせる。


「で、力使いすぎてそんな小さくなってんの」

「……左様」


 現在、山神、中型犬サイズ。顔が膝辺りまでしかない。見上げられるのは新鮮だが、なんとなくかがんでしまう。いくら気さくに接してくれるとはいえ、相手はやはり神様。見下ろすなぞ、あまりに恐れ多い。しゃがんでも己のが高いのはどうしようもない。

 神々しさは変わらない眼前の狼をしげしげと眺めた。


「しかしまあ、随分とわいくなっちゃって」

「なあに、すぐ戻る」

「そうなんだ」

「頼むぞ」

「俺かよ」


 湊のあげる愉快げな笑い声が生まれ変わった庭に木霊する。驚いたすずめたちが、一斉に芝生から飛び立っていった。



 買い物から戻った湊が表門の表札の下に、青葉に乗った丸い種を見つけた。久しくなかった珍事である。山神が最初にくれた薬草類の時以来だ。

 不意に湊は思い出す。今し方田んぼのあぜみちを歩いている最中、やけにカニだの、亀だの甲羅持ちの生き物たちと行き合ったことを。皆、道端に佇み、湊を見上げていた。どこか物言いたげに感じられたのは、気のせいだったのだろうか。

 不思議に思いながら、親指の爪ほどの黒い種を拾い上げた。


「これって山神さんからじゃ、」

「違うぞ」

「あ、やっぱり?」


 ぬっと格子戸と門柱の隙間からわずかに鼻を出す山神は、既に元の巨躯に戻っている。山神は自由に敷地内外をかっする。野生の狼が存在したのははるか昔の話だ。いくら近隣に人目はなかろうと、よろしくないだろう。それとなく進言したところ、湊にだけしか視えないから問題ないと一蹴された。


「じゃあ、これは誰から」

「うむ、悪いやつではない。ここに厄介になりたいようだ」

「庭に?」

「池に住みたいらしい」

「へえ。いいんだ?」

「許可するのは我ではない。ここはお主のもの」

「や、俺も仮だし。庭はほとんど山神さんの物のような気がするけど」


 山に程近いここは、山神の所有物だろう。家なりなんなり建造物等を建て、我が土地だと主張するのは人間の勝手な言い分に過ぎない。神にそんな人間本位の理屈が通用するはずはない。

 ゆえに己の好き勝手に庭をいじるのかと。家の中には入ってこないのは気を使ってくれているのかと。そう思っていた。


「ま、俺は構わないけど」

「らしいぞ」


 山神の視線を追う。斜め後ろに、陽炎かげろうのごとくはかない小さな白いモノがいた。地を這うその姿が、ぼんやりと見えた。


「亀?」

「うむ」


 直径十センチに満たない亀が首を伸ばし、湊を見上げていた。


「お主に助けられたと言っておる」

「えっ、記憶にございません! 人違いでは!?」


 亀を助けた男の末路といえば。反射で有名な昔話が脳裏を過り、身構えてしまう。


「罪な男よな」と山神が愉快げに巨躯を揺すって笑った。


 みず飛沫しぶきを飛ばし、亀が池へと飛び込む。澄んだ水中を四肢でき、心地よさそうに泳ぎ回る。お気に召したようだ。

 亀いわく。先日商店街で怨霊に取り込まれていたのを湊が祓い、助けたという。メモ帳から買い物メモ全消えの憂き目に遭った時のことだ。それを聞かされた湊は、あの時、かなり頭にきて、見知らぬ通行人に愚痴ってしまったのを思い出す。あまりの羞恥に頭を石灯籠に叩きつけたくなった。

 プカプカと水面に顔を出す亀をしばらく見守っていれば心が静まった。岩に乗せていた足を下ろし、庭を見渡す。


「もらった種、どこに植えよう」

「それは相当大きくなるぞ」

「じゃあ、山神さん決めて」


 迷うことなく庭のほぼ中央へと向かう白い後ろ姿についていく。


「ここだ」


 前足で叩いて示された箇所は、まるであつらえたように広い土面だった。前足で掘ってくれた穴に種を入れ、土を被せていく。


「ところで、これなんの種?」

「植える前に気にするものであろう」

「すみません」

「木だ。なんの木かは、育ってからの楽しみにしておれ」

「そうする」


 植えた場所へじょうろで水をく湊の背後、いけから楽しげに水飛沫が散った。


 普段、山神は酒より甘味を好む。夕飯後、久々に日本酒が吞みたいと仰せなので、家の中から一升瓶を持ち、出てきた途端、大気が揺れた。御池の方から強い視線を感じる。

 さも愉快とばかりに笑った山神が、甘酒饅頭まんじゅうに嚙みつく。湊が淡く光を放つ御池へと顔を向けた。


「酒、吞む?」


 瞬く間に水中から飛び出し、亀が這ってくる。亀にあるまじきその速度。たとえうさぎと競争したとしても、決して遅れはとるまい。縁側下から伸ばされた顔の眼がらんらんと光った。

 亀は日に日に存在感が増していき、湊にもはっきりと見えるようになった。全体的に黄みの強い真珠の光沢。山のようにとがった特徴的な甲羅。通常の亀とは異なる姿だった。

 縁側へと上がってきたその体はれていない。そんな様を見るたび、相手は神様なのだと強く思う。浅皿に酒を入れると、飛びつく勢いでかじりつき、一心不乱に吞み出した。かなりの酒好きらしい。夕飯に誘った時は酒がなかったから断ったのだろう。


「今度からちゃんと用意するよ」


 体から光を放ち、喜びを伝えてきた。





 亀も存在を確固たるものにした梅雨も間近に控えた頃。庭の小径に舞い散る落ち葉を、湊がたけぼうきで掃いていた。


「庭はいつも温度変わらないよな。妙に空気も清々しいような気もするし……」


 何より不快な虫一匹すらいない。

 静かな空間に落ち葉のかさつく音、竹箒と石畳が擦れる音が辺りに響く。日々温度も湿度も上がっていく世間。対して、いつでも変わらぬ快適な温度を保つ楠木邸の庭。外から帰ってくれば、より顕著に空気の違いを肌で感じる。

 表門をくぐった瞬間、空気が変わる。温かくて、柔らかくて、されど身が引き締まる清廉な空気に身を包まれる。

 縁側で寝転ぶ大狼と大岩で甲羅干しに勤しむ亀は、何も言わない。ただ、のんびりと思い思いに過ごすだけ。個体数は増えても、至って静かで平和な時間が流れていく。


 そんな楠木邸の表門前に立ち尽くす男が一人。

 やや草臥くたびれた黒スーツで長身を包み、家を見上げるその顔は青白くくまが目立つ。健康的とは到底言いがたい様相の男は、きょうがく覚めやらぬ様子で呟く。


「……ここは、神域か……?」


 震える声を漏らし、眼鏡のつるを押し上げた。

刊行シリーズ