第3章 庭の改装は劇的に ②


 緑鮮やかな日本庭園を前にして、しおれた青年と湊が縁側に腰掛けている。湊より少しとしうえだろう。姿勢はいいが、若干スーツがよれている。目鼻立ちの整った顔には黒々とした隈が居座り、顔色も悪い。さながら仕事に疲れ果てたサラリーマンといった風情である。初対面時とのあまりの変貌ぶりに、その横顔をげんに窺う湊は血色もよく健康そのものだ。

 対称的な青年たちの背後から、横たわる山神が面白そうに眺めていた。


 玄関チャイムが鳴り、出てみれば表門前に幽鬼のごとく佇む何者かがいた。湊は戦慄しながらも、いつぞや商店街で行き合った男だと思い当たった。すぐさま見るからに歳上の相手に畏まり「あの時はれしくて申し訳ありませんでした」「いえいえ」という紋切り型の謝罪と挨拶を済ませた。そして庭へと案内すれば、みやびな庭園を見て男は足を止めてしまう。一体何にそれほど驚いているのか理解しかねた。声をかけ続け、ようやく腰掛けさせて、今に至る。


 二人の間に置かれたお盆の上、水滴をまとうグラス内の氷が、カランと涼やかな音を立てた。

 男は、はりさいと名乗った。

 そこそこ長い時間、庭を眺め、一度深呼吸した播磨が湊に向き直る。心なしか生気が戻ったような気がする。

 そうだろう、そうだろう。うちの美しい庭を前にいつまでも陰気くさい顔などしておられまいて、と湊は胸中で深く納得する。だがしかし、何を言われるのかとわずかに身構えた。


「俺は陰陽師なんだが」


 単刀直入な御仁である。真剣な顔で何を言い出すかと思えば、今やファンタジー職業である陰陽師とは。

 背後に山の神、前方の池に神々しい亀。実家には多数の人ならざるモノたち。昔から不思議なモノたちと接してきた湊にとって、この程度のことで驚きはしない。

 顔色一つ変えず、視線で先を促した。


「先日、怨霊を祓ったのは君の力だろう」

「……らしいですね」


 自覚もなく視たことすらなく、何一つとして実感はないが、誤魔化したところで意味はないだろう。男は視えていたからこそ、わざわざここまでやってきたのだから。

 湊はまるっきり他人ひとごとのような態度だ。その様子に播磨は、くちもとを引き結び、形容し難い顔をした。やるせない何かを飲み込んだように。次いで苦々しげに渋面を作る。


「近頃厄介な怨霊が多過ぎるせいで、我々陰陽師の手が足りていないんだ。元々、祓える者が少ないというのもあるんだが」

「そう、なんですね」

「あの時君は、怨霊が視えていないようだったが綺麗に祓っていた。心当たりは?」

「はあ、どうも俺が書いた文字が祓ってるみたいですけど」

「その護符を売ってもらえないだろうか」

「ごふ?」


 咄嗟に理解できず、オウム返しをしてしまうと、背後から忍び笑いが聞こえた。


「護符とはいい得て妙よ。お主の字が書かれた紙がほしいらしいぞ」


 山神が親切に教えてくれる。〝護符〟なる単語を日常生活で使わないため、すぐにはせなかった。

 湊には当たり前のように視えて聴こえている山神の言動だが、播磨は視えても聴こえてもいないようだ。少しだけ背後を気にするそぶりをみせただけだった。湊以外には視えないと言っていたのは本当だったのかと、山神への信仰心が地味に上がっていた。

 播磨が上着の内側へと手を入れ、分厚い財布を取り出す。


「言い値で買おう」

「ただの買い物メモを?」

「か、買い物メモ?」


 つい本当のことを言ってしまう。播磨が顔をひきつらせた。

 いい臨時収入になるかもと一瞬浮き足立ったが、大した金額になりそうにないと秒速で冷静になる。元がメモ紙、ただ文字をつらつら書いただけ。インク代も知れたもの。さほど元手もかかっておらず、労力も使わず、ぼったくるなぞできようはずもない。良心が痛む。


「一枚、一円にもならないような気が……」

「かいもの、メモ……?」


 播磨はどこかへと意識が飛んでいるようだ。額に手を当ててうつむき「うそだろう、なんで……」とうわ言のように呟く。

 陰陽師なるものにどうすればなれるのか知る由もないが、修行なりなんなり努力、苦労もあるに違いない。なんの努力もなしに、文字を書いただけで祓える湊に対して思うことがあるのだろう。どうにもできない問題だ。せめて己を頼ってきたのならば、力になってやりたいとは思う。


「いや、待てよ。気持ち次第なら思いを込めれば、強い紙になって価値が上がったりするとか?」


 もらえる物はもらっておこう精神は譲れないけれども。


「気合いを入れてつづってやればよい」


 愉快げに山神が口を挟んだ。

 そういえばと不意に気づく。出かけるのは買い物時のみ、山神というありがたい話し相手もできて、暇潰しに字を書くこともなくなったことに。


「よし、久々に頑張って書きますかね」


 快活な声が上がる中、播磨がようやくグラスへと手を伸ばした。

 湊がポケットからメモ帳を引っ張り出し、つづっていく。走り書きではなく、一言一句、丁寧に心を込めて。


「黒糖饅頭まんじゅうくり饅頭、今川焼き、草団子、桜餅」


 山神がつらつらと上げ連ねていく好物を。


「こしあん派、と」


 呟きながらペンを走らせるのを横目で見ていた播磨が、茶を庭へと向けて噴水並みに噴き出した。驚いた湊が顔を上げる。


「……大丈夫ですか」


 無言でうなずき、播磨はハンカチで口許を押さえた。

 書けば書くほど、メモ紙からすい色の光が放たれる。ただの文字。なんの修行も、鍛練もしていない一般人が書いた和菓子名入りのメモ紙が、だ。

 すごうでの陰陽師が呪を込めに込めて書いた文字や図でも、ここまでの威力はない。

 播磨のハンカチで隠れた口から、乾いた笑いが漏れた。


「そこまでにせよ」

「あ、うん。あれ、なんだろ……?」


 山神の制止がかかった途端、強い眠気を感じ、手を止める。以前、山神に祈りをささげた後、奇妙な疲れを感じた時と同じ感覚だった。

 結局、五枚しか書けなかった。身体全体が重怠く、これ以上は書けそうもない。決まり悪そうな湊が後首を搔く。


「……たったこれだけですけど」

「いや、十分だ」


 なるべく丁寧にメモ紙を剝がして渡せば、両手で恭しく受け取られる。まるで宝物を扱うかのごとき丁寧さで、財布の中へと仕舞われる。妙にくすぐったい気持ちになった。湊にしてみれば、ただのメモ書きに過ぎないのだ。



 そうして引き替えに、万札の薄い束が出てきた。目の前に差し出されたその厚みは、確実に十枚以上はあるだろう。予想以上の金額に目をく。


「噓だろ」


 思わず、素が出た。焦ったり、驚いたり、憤ったりするといとも簡単に敬語が外れる。気を抜くとまぶたが落ちかねない眠気まで一気にふっ飛んだ。よもや少し丁寧に書いただけの安物メモ紙が、ここまで価値がある物と見なされるとは思いもよらなかった。まじまじと陰陽師の顔を見つめる。極めて真剣な顔つきで、からかう気など微塵もなさそうだ。

 播磨が早くしろ、とばかりに札束を突き出してきた。両手を胸の前にかざし、激しく首を振る。全力で拒否の構えである。


「いやいや。そんな大金、受け取れないって。いくらなんでも多過ぎる。見てただろ、ただ何気なく書いただけだって。それにこのメモ帳もすっげえやっすいやつだからね。三冊セットで百円程度のお買い得品。ちょっと調子に乗って一枚三百円くらいになればいいな、ぐらいの気持ちだったんだけど!」

「相応だ。いやこれでも少ないだろう。すまない、これほどのものだとは思っていなくて。今は持ち合わせがこれだけしかないんだ。後日改めて、」

「何言ってんの!?」

「とりあえず、今日はこれだけでも受け取ってくれ」


 頑として引かず、厳しい面持ちで押しつけてくる。

 この陰陽師、やけに押しが強い。


「受け取れ」

「無理」

「いいから」

「もらえるか!」


 しばし攻防を続けていれば、背後から盛大なるため息がつかれた。


「受け取っておけ、その男は引かぬ」

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