第4章 本領発揮 ③
実家から登山靴を送ってもらっていた己に称賛を送りたい。スニーカーと登山靴では、足の疲れ具合が大幅に違う。底が固く、がっちりと足首を固定してくれる。頼もしい相棒を帰り着いた際には、心を込めて手入れしようと胸中で誓う。
行く手を阻む枝葉を
やがて、緑のトンネルの向こうに歩きやすそうな道が見えた。
恐らく昔の人たちが使っていた山道であろう。ほっとしながら雑木林を抜けた。
そして、先を行くセリを追って顔を向ければ、ただでさえ幅の狭い坂道に巨石が散らばっていた。
湊の顔が引きつる。見上げると坂道の上は、木々に覆われた断崖絶壁だった。所々
今さら弱音など吐けるはずもない。身体を斜めに、横にしながら巨岩を回避して登っていく。
「邪魔だよねえ」
「う……ん」
ウツギがリュックの上に立ち上がり、伸び上がって頭上からのんびり声をかけてくる。
「こっちですよ」
声の方へと視線をやれば、坂道沿いに佇む小さな祠があった。両側にセリとトリカが立ち、祠をペチペチと叩いて示す。リュックからウツギが飛び下り、二匹のもとへと走っていった。
祠の前にある二段の石段を上がり、近づく。胸辺りの高さほどしかない苔むした石造りの祠だった。倒木が被さり、周囲は雑草だらけ。すっかり山の一部に取り込まれ、
肩を下げ、深い息を吐いたのは疲れからだけではなかった。しかし切ないと感傷的になるのは、人間のみのようで。
「別にこれを綺麗にしなくても、山神は気にしませんよ」
「だな。じかに山神を敬ってくれてるから、意味ないぞ」
「こんなとこにお菓子置くの? どうせ我らが食べるんだから、直接ちょーだい」
見上げるウツギから、揃えた前足を出され、乾いた笑いが出た。想像以上に朽ち果てた姿に、流れた年月を嫌でも突きつけられた。数年、数十年どころではなく、恐らくもっと永い時間放置されているだろう。
倒木を避けて中を覗くと拳大の丸い石が三つあり、一つは真っ二つに割れていた。
勝手に人間が設置し、勝手に御神体として
たとえ偶像崇拝であろうと、人々が祠に山神への信仰を向けていたのは、間違いないことだ。ここに、わかりやすく信仰を向けられる祠があるからこそ、ほんのわずかな時間でも立ち止まり、手を合わせ、目を閉じて祈りを捧げた者も多かっただろう。
人からの信仰心が山神の力の源ならば、山神が
御神体として崇めていた大切なモノが歳月を経て、こんな有り様になっているのを知れば、先人たちはどんな気持ちを抱くものなのか。綺麗にしてあげたいと思うのは、ただの自己満足に過ぎない。
だがそれでいい、湊も人間なのだから。
湊は浅く息をついた。
「掃除が終わったら、みんなで飯と菓子食おうな」
はーい、と現金なよい子の揃ったお返事を背中に受け、肩からリュックを下ろした。
一通り磨き上げ、祠は見違えるように綺麗になった。お楽しみの昼飯とおやつも終えた一行は、山を
テンに前後を挟まれ、行きと同じ獣道をたどっていく。腕を広げて幹から幹へと伝い、斜面を下りる。一休みしたおかげもあり、軽快に歩を進めていた。
傍らを滑るように歩くウツギが、無邪気に尋ねてくる。
「風、操れるようになった? ビューッ、くるくる~って、風神みたいに!」
「少しだけな。髪乾かすのにすげえ便利」
「ええ~、髪の毛ェ~?」
「冬場は寒くて無理だろうけど」
やや伸びてきた前髪を引っ張り、朗らかに告げる。テンたちが呆れて、もったいないと口々に
比較的、斜面がなだらかになり、膝丈の草むらを搔き分けて歩く。キャップを被り直した。
「や、だって使いどころが、ねえ?」
「葉っぱ集めは~?」
「繊細な操作、すげえ難しい。俺には難易度が高過ぎる」
集めた落ち葉を派手に散らかして以来、もっぱらドライヤー代わりとして使っている。折角いただいた異能だが、いまいち使いこなせておらず、毎日地味に強弱の付け方だけを訓練していた。
他愛ない会話を交わし、渓流沿いに差しかかった頃、頭上から鋭い鳥の鳴き声があがる。枝葉を揺らし、小型の鳥たちが飛び立っていく。
まるで、警告音。
そう感じた直後、渓流沿いで立ち止まった湊の周りにいた三匹の目つきが変わった。その眼差しは鋭く、
いつもの陽気な彼らの、あまりの変貌ぶりに湊が驚く中、一斉に上流へと向かって駆け出す。転がる石の合間を跳び越え、駆け抜け、大きく曲線を描き、巨大岩の向こう側へ。瞬く間に視界から消えていった。湊も慌てて後を追う。
息を切らし、大岩に片手をついて回り込むと、階段状の滝にせり出す大岩上にぼんやりとした黒い塊があった。
空を覆い尽くす梢にぽっかりと空いた穴から、差し込む一筋の光に照らされている。清廉とした日の光は、黒い塊にはひどく不似合いだと感じられた。岩の上に緑葉が散っている様子から、空から落ちてきたのだろう。その周囲も
「み、みなと!」
セリの、切れ切れな、か細い声。声のした方を見れば、大岩から少し離れた場所で、三匹とも口許を押さえ、前屈みになっていた。山の警護を担う彼らは異変を察知して駆けつけたものの、穢れのひどさにどうにもできないらしい。
「我らは、これ以上、ち、近づけません」
「穢れが、うっ、ひどく、て」
「ううぅ、ギボヂわるいぃ」
えずいてかなり苦しそうだ。
「大丈夫!? もっと離れて。俺なら行けるんだろ?」
「……はい。メモ帳、ありますよね」
「うん」
もちろん持ってきていた。ベストの胸ポケットからメモ帳を取り出す。己の能力を知ってから、いつ
しかし正直、己の書いた字が悪霊を祓う力があるとは、完全には信じきれていない。
涙目のトリカが湊を見やる。
「気を……つけて」
「わかった」
頷いた湊が、ゆっくりと大岩へと近づいていく。
眷属たちには、視えていた。
穢れ
「あんなにひどい穢れでも湊には、視えていないのですね。ううぅ、め、眼が痛い」
「だな。顔色一つ変えず平然としてるのが、また。ひぎゃ! 鼻がっ」
「視えない方が幸せかも。きちゃないし、おぅふ、ぎもぢわるいいぃ」
山神の眷属たちは神聖なモノであり、穢れに滅法弱い。まだ生まれて間もなく、あまり耐性ができていないというのも大きい。
しばらくして眼と鼻に激痛、吐き気まで込み上げるほどの瘴気が薄れた。深呼吸を繰り返す。ようやくまともに立てるようになった三匹が、固唾を吞んで見つめる先、湊が大岩に足をかけた。
湊は足元を見下ろす。
一抱えほどの薄黒い塊があるように見える。
ちらりと五メートル離れた先のテンたちを見やれば、二本足で立ちこちらを心配げに窺っていた。
具合はよくなったようだ、と安堵し、再度足元に視線を落とす。やはりただぼんやりした黒もやがあるくらいにしか見えず、己の身体にもこれといった異常は感じられない。正直、どうしてコレがそこまで眷属たちに悪影響を及ぼすのか、理解し難かった。
湊は見鬼の才には恵まれていない。
怨霊クラスのひどい穢れになると、ようやくうっすら視認できる程度だ。ゆえに彼が知覚できるのならば、対象はそれだけ穢れ堕ちていることを意味する。



