第5章 湊印の効果やいかに ①
──ちりりん。
軒下の風鈴が涼しげな音を奏でた。世間ではうだる暑さが続いているのとは裏腹に、楠木邸の縁側では常に心地いい風が吹き、まるで春のような陽気に包まれている。座卓に向かい、メモ帳に文字を綴る湊は、暑さを感じている様子もなく、居心地よさそうだ。
楠木邸は不快な虫一匹すらおらず、すこぶる快適である。虫に悩まされたのは、始めの頃だけだった。本来ならばあり得ない。山裾に近い立地は、虫との共存を
無論、山神の神力によるものである。
反面、家の中は蒸し風呂のごとし。庭の方が断然居心地がよく、湊もほぼ庭にいる。何より電気代が浮いて助かっており、夜も縁側で寝てしまうことも多い。
今日も今日とて、縁側の中央を占領する大狼が、くわりと大あくびを一つ。座卓で書き物に勤しむ横顔を眺めやる。
「精が出るではないか」
「まあ、そこそこ」
最初の頃、意識し集中して書くとほんの数枚程度で眠気、
「風の強弱つける練習してるうちに、祓う力の流し方もわかってきたんだ。だから結構楽しい」
「どのような学びであれ無駄になることなど、何一つとしてないものだ」
「だよな。肝心の風力のコントロールは微妙だけど」
苦笑する湊だが、淀みなく動くペン先から均等に祓う力が流れていく様子が、山神の視界には映っていた。細く、長く、無駄なく。
ある種、神聖ささえ漂う。たとえ書く文字が和菓子名で煩悩まみれだとしても。
湊の祓う力が短期間の内にここまで安定したのは、常々神の息吹きを感じているところが一番大きい。
以前は、文字に含まれている祓う力の量が多かったり、少なかったりと大層無駄が多かった。ムラ気の多い湊の気分次第で、込められる力に偏りがあったようだ。表札に関しては、家に掲げる大事な物ゆえうまく書かねばならぬという強い気持ちが込められ、普段書いている文字より段違いに力がこもっていた。
悪霊の
雷神の力を借りていたならば、今のように遊び感覚で気軽に扱えはしない。下手すれば、命に関わる危険な力だ。風の力も湊の鍛練次第では恐ろしく強大な力となりうるが、今のところ、髪を乾かすだけにしか使われていない。かくも平和である。
昔から食えない風神は何を知り、どこまで見越していたのか。
ふと息を吐き、同じく
──ちりん。形だけでも夏を感じるべく取りつけられた風鈴が、風に煽られ音を鳴らす。丸いガラスに描かれた朱色の金魚たちが軽快に回った。
程よく冷えた神水を湛える御池では、心地よさげに泳ぐ霊亀から扇状に水紋が広がっていく。
しばらく、ゆっくりとした穏やかな時が流れた。
「よし、今日のところはこれで終わり」
ぱたんとメモ帳を閉じ、上に乗せた手の甲を見つめる。
「護符がメモ帳って、どうなんだ」と湊は今更ながら思う。
ごろりと寝転がった大狼が、だらけきった体勢で湊を見やる。
「何か問題あるのか」
「薄くない?」
「紙の厚さは関係ない。筆の種類は関係あるようだがな」
様々なペンを試した結果、鉛筆やシャープペンシルには力を込めづらく、あまり祓う力が入っていなかった。もし力が込められたのならば、学生時、提出した紙等に書いた字が消えていた可能性もある。むしろ力が入らなくてよかったと胸を撫で下ろしていた。
「大事なのはお主の気持ちだと再三申したであろう」
「そうだけどさ、人様に買ってもらう物で、しかも商売道具になる物だ」
よいせ、と仰向けになった山神が、横目で先を促す。
「陰陽師がどうやって悪霊を祓ってるのか知らんけど。護符を投げつけたり、直接貼りつけたりするわけだろ」
前足を振って続きを促せば、真顔でメモ帳を振る。
「ペラッペラのメモ紙で、ちゃんと役目を果たせるものかと」
「投げるのは……難しかろうなあ」
「だよな。そういえば、俺もこないだ自分で使った時、投げるってどうよ? って思って上から降らせたんだった。播磨さんって俺が書いたメモ紙があるだけでありがてえって感じだし、実は不満だけど遠慮して文句言いたくても言えないんじゃ……」
「それはなかろう。あの男、結構我が強いぞ」
「そうかな。いかにも育ちがよさそうな人だろ、播磨さんって。基本的に所作綺麗だし。いっつも高そうなスーツ着て、ブランド物の革財布に安物のペラいメモ紙、大切そうに入、れて……」
「そうだ、名刺だ。名刺に書けばいい!」
「うむ。よいのではないか」
「だよな。投げやすそうだし、これで格好がつくだろ。名刺ぶん投げる陰陽師って、おもしろ、や、カッコイイだろ、うん、多分。よし明日、白紙のやつ買いに行こう」
若干にやけて立ち上がりかけたその時、
「間に合わんかったようだな」
軽やかに玄関チャイムが鳴る。この家を訪れる者は限られている。十中八九、気前のいい陰陽師に違いない。
「……早いな。前回から一週間も
訝しげな顔をしつつ、サンダルに足を入れた。
見目も手触りもいい上質な和紙に包まれ、金の
正座した湊の、脚上に置かれている拳が震える。
大狼が深呼吸し、鼻孔いっぱいにほのかに漏れる匂いを吸い込む。小豆の香りを察知。眼に一筋の流星が走った。どれほど厳重に密封包装されていようとも、神たる獣の優秀な嗅覚は造作もなく好物の香りを嗅ぎ分ける。安物ではない高級小豆の香りを、断じて違えることはない。加えて、ほんのり混ざる抹茶香。
時期的に、水
深く、深く頷く。深みのある神の声が、重々しく宣う。
「大義である。よきにはからえ」
播磨にメモ紙護符を渡しかけていた湊の腕が震える。歯を食い縛り、込み上げる笑いの発作を喉奥で耐えたのだろう、頬と首に力が入るのが山神から見て取れた。
いつも当たり前の顔をして座卓の一角を陣取る山神に播磨は気づいていないと、湊は思っている。ゆえに山神の何者にも配慮しない声量の独り言が聞こえても、反応しないよう、澄ました顔で対応するよう心がけていた。
山神が播磨を見やる。生真面目な顔つきでメモ紙を両手で恭しく受け取ると、肩の力が抜ける。同時に張り詰めていた気配も和らいだ。
播磨は気づいている。
明確には視認できていなくとも、神という異質な存在がすぐ傍にいて、己をつぶさに観察していることを。今回の供物はお気に召していただけたのか。神の不興を買ってはいまいか。
常に全神経を尖らせ、神の機微を何一つ取りこぼすまいと気の毒なほど緊張していた。山神が喜んだのを感じ取り、ようやく気が緩んだのだろう。
大狼が愉快げに尻尾を揺らめかせた。
「何も嚙みつきなどせんというのに。我、山神ぞ」
「ッ! きょ、今日は涼しいですね」
「……そうだな」
外は猛暑。高温、多湿。身体中の水分が蒸発しかねない



