Ⅲ ⑤
「従卒さん、明日に支障が出ないよう、顔の怪我には薬を塗るなりしておきなさい」
ラケルとシーラも天幕に戻る。
シーラは加護なしに回復魔法を使うという発想には至らなかったが、怪我の治療に言及するぐらいの気遣いは見せた。
確かに傷を洗って薬を塗っておいた方が良いな。
目が腫れたりしたら厄介だ。
俺はもう一度橋を見やってから、医療班の天幕に向かった。
◆
「そ、その顔はどうしたのロルフ!?」
翌朝。
エミリーの反応は予想どおりだった。
「転びました」
「転んだだけでそんな風になるわけ無いじゃない!」
だよな。
俺もそう思う。
エミリーの反応を予想していたにも関わらず、それへの返答を考えていなかった。
作戦前のこのタイミングで、第一騎士団への不信に繫がりかねない情報をエミリーに伝えたくはないが、俺が言わなくてもイェルドたちに訊けば分かってしまう。
仕方ない。隠す意味は無さそうだ。
「第一騎士団のリンデル隊長の不興を買いました」
「エーリクさんの? どうして?」
「加護なしだからでしょう」
「だからと言って!」
そこに貴女への慕情が加わった結果、彼が感情を制御できなくなり、こんなことになりました、とは言わないでおく。
言えばエミリーは自分に原因の一端があると考えてしまうからだ。
しかし、リンデルの行動からエミリーへの恋情を読み取ったり、嫉妬による感情の化学反応に気づいたりと、俺にも色恋に関する機微というものが
もう少し早く成長していたら、婚約者であるうちに、エミリーに美しい言葉を贈ることなどもできていたのだろうか。
どのみち別離に至るとしても、婚約者らしいことを何もできていなかったので、そこには俺なりに
まあそれはともかく。
第一騎士団に抗議しようと息巻くエミリーを止めなければならない。
「エミリー様。いま第一との間に事を構えるのは良くありません。我々は彼らと連携して勝たなければならないのです」
「分かってるけど、こんなの黙ってられないよ!」
「すべてが終わった後にしましょう。今は戦いのことだけを考えてください」
「…………」
「エミリー様」
「………分かった」
渋々了承するエミリー。
戦の勝敗を決める作戦に、まさにこれから騎士たちが命を懸けようという時だ。殴った殴られたの
そのことはエミリーにも十分わかっているのだ。
駐屯地の中央で、ティセリウス団長が皆へ渡河作戦について説明している。
一か月以上続いたエルベルデ河流域の戦いに、終止符を打つ作戦が始まろうとしていた。
◆
タリアン団長と第五騎士団の
ティセリウス団長はデゼル大橋に位置取っている。
橋上の戦闘の指揮を執るためだ。第一騎士団の
橋上にリンデルの姿が見えると、エミリーが一瞬
眼下では、すでに四つの渡河ポイントに部隊が配置されている。
一つは第一騎士団、残り三つは第五騎士団の部隊だ。
舟では数に限りがあるが、
彼らはこれから百メートルほどもある河を歩いて渡るのだ。
橋の無い地域では、流れの緩い河を歩いて渡ることは珍しくない。
舟を持たずに河の渡しを
いま、エルベルデ河はそういった河と同じく、緩やかな流れになっており、水位は最も深いところでも腰ぐらいまでだ。
こうして見ても、確かに歩いての渡河が可能と思える。
問題はここが戦場であるということだ。
当然敵は矢や魔法で妨害してくる。
こちらは大盾や障壁で防御するが、橋上の戦いに敵の戦力をしっかり吸収して、渡河部隊への手出しを可能な限り抑えることが作戦の肝となる。
したがって、デゼル大橋の戦いを指揮するティセリウス団長の肩に、作戦の成否がかかっているのだ。
だが、ここから見えるティセリウス団長の表情に気負いは無い。
彼女は剣士としても用兵家としても超一流と聞く。このぐらいで顔色を変えたりはしないようだ。
対して、敵から離れたこの高台に陣取るタリアン団長の表情には緊張が見られる。
実戦の少ない第五騎士団にとって、敵の眼前で攻撃に
しかも行軍の疲れもある。初めて見る魔族に委縮している者も居るようだ。
これから河を渡ろうとしている者たちの中には、ただ叙任を受けるために第五騎士団に入ったのに、何故こんなことをしなければならないんだ、と考えている者も居るだろう。
だが、第一騎士団が一か月戦って勝ち切れなかった戦いに、請われて加勢し、戦勝をもたらしたとなれば、第五騎士団はかなり大きな評価を得ることになる。
そういう意味でも、これは重要な戦いなのだ。
そして、そんな思いを持つ者も、持たない者も、いよいよ河に踏み入っていく。
渡河作戦が始まった。
◆
ティセリウス団長の指揮は見事だった。
橋上で間断なく打撃を加え、敵を削っていく。
魔族側は橋へ随時戦力を投入しなければならず、渡河部隊への攻撃は薄くなっている。王国側の
ティセリウス団長は、指揮のために橋の中ほどまで行っている。最前線にほど近い場所だ。
それは指揮官としては常識的とは言えない行動だが、彼女が英雄と言われる
それどころか、彼女は自身が前線に躍り出て、
即座に穴を塞ぎ、負傷者を退げて回復魔法を施す魔族の無駄のない動きには目を見張るが、回復術士は魔族においても絶対数が少なく、重傷者を治せるほどの術士となると、なお居ない。
結果、魔族側では兵力が不足し、橋上へ追加兵力が投入されていく。
それにより、渡河部隊への対応は更に薄くなる。
矢は散発的にぱらぱらと届くのみとなり、渡河部隊はそれを大盾ではじきつつ、少しずつ前進していく。
大盾は普通の鉄製だが、それを掲げる前衛部隊がしっかりと魔力を通している。
矢避けの障壁もあるため、
渡河部隊は確実に歩を進め、河の中ほどにまで到達した。
ここまではかなり順調だ。
「もう勝ちだろこれ。アタシらの出番が無いのは残念だけど」
「ええ。このまま対岸を制圧できますね」
確かに優勢だが、俺としてはまだラケルとシーラの意見に賛成できない。
「私たち初陣を勝利で飾れるね、ロルフ!」
「どうでしょう。そう思うのは早いかもしれません」
「えっ、なんで?」
「まず、
「でくの坊が利いたふうなこと言うじゃねーの。行軍でちょっと貢献して調子に乗ってんのか?」
「ただの一般論です。それと、第五騎士団の渡河のスピードが、おそらくティセリウス団長の想定より遅いです」
やはり行軍の疲労は抜け切っていないのだろう。第五騎士団の渡河部隊の動きが悪い。
ティセリウス団長は、橋上の戦いを指揮しながら、四つの渡河部隊の進軍速度を随時確認し、第五が遅れていることが分かると、橋の手前に居るベルマン副団長へ伝令を飛ばしている。
そしてベルマン副団長の指揮のもと、第一騎士団の渡河部隊が進軍速度を下げ、足並みをそろえる。
「……遅いのは疲れているからだと言いたそうだな」
タリアン団長が声に怒気を乗せて問う。
行軍ルートの選択ミスを非難されているように聞こえたのだろう。
はいそうですと答えてみたい衝動に駆られるが、さすがに止めておく。
「疲れもあるでしょうが、魔族との接敵が初めてという者も多い状況です。第一が望むとおりのパフォーマンスを出せるわけでも無かったのでしょう」
まあ噓は言っていない。
「ふん……」



