Ⅲ ⑦

 ティセリウス団長はすかさず橋上の戦線維持に意識を向け、指示を出す。

 しかし、僅かに唇をみしめたその表情は、事態を読めなかったことに対する自責の念を表しているようだった。

 だがそんな彼女を、そして俺たちをあざわらうようにタイムアップが訪れる。

 エルベルデ河の水位と水流が渡河部隊の足を捕らえたのだ。

 彼らはその場から動けなくなってしまった。

 隊列後方の、まだ浅瀬に居た者たちも動けなくなっている。

 そこはもう浅瀬ではなくなっていた。

 つい数分前まで進軍していた彼らは、今は剣や杖を河底に刺してつかまり、水流に耐えている。

 皆、表情に焦燥を浮かべていた。

 だが流れはいや増すばかりだ。

 このまま耐えてもいずれ流されるのみだが、彼らはもう一歩も動けない。

 更にそこへ、敵軍から矢と魔法が向けられる。

 もはや盾を構えられず、杖もふれない彼らは、なすすべなく攻撃に晒されることとなった。

 抵抗できず次々に討ち取られていく仲間たち。

 それを目の当たりにした橋上の部隊を自失が覆う。

 それは、ほんの僅かな時間。おそらく三十秒ぐらいのものだっただろう。

 しかし一瞬たりとも気を抜かず戦線を維持してきた第一騎士団にとって、三十秒の自失はあり得ぬ失態と言えた。

 ごく僅かとはいえ、前線への兵力供給に間隙が生まれていた。

 すべてがスローモーションに見える。

 橋の前方で敵が退がっていく。

 それを追う味方が居ない。

 敵が退がった場所には、幾つもの木箱が置かれていた。

 俺は人波を押しのけ、前方に向けて走り出す。

 ティセリウス団長も走り出しながら声を張りあげる。

 水魔法を前方に放てと叫んでいる。

 だが間に合わない。

 敵は橋上から完全に撤退し、そして木箱に向けて火矢を放ってきた。

 俺は木箱を飛び越え、なお走る。その先はすでに無人だった。

 そして火矢が飛ぶ下を全力で走り抜ける。

 同じように背後を走る者たちが居る。

 ひとりはティセリウス団長だろう。

 あとは分からない。振り返っている余裕は無い。

 あの木箱の中身が何なのか、当然考えるまでも無い。

 火薬だ。

 そこに火矢が刺さる音がする。

 どすどすと、俺たちの胸中に絶望を喚起させる音がする。

 次に何が起こるか、これも考えるまでも無い。

 永遠とも一瞬とも思える時のあと、それは起きた。


 ────轟音。


 耳をつんざく音は、熱波と爆風を伴って、俺を背後から襲った。




「ぐぁっ!!」


 なすすべなく空中に投げ出された俺は、そのまま対岸に落ちる。

 さっきまで橋だった木っ端が、全身に降りそそいだ。

 体中を痛みが苛む。

 つまり、俺は生きている。

 ならばまだやることがある。

 震える体にむちって立ち上がろうとする。

 ここは対岸。敵陣だ。倒れている場合じゃない。

 周囲を見まわすが、もうもうと立ち込める土煙と、激しい耳鳴りが状況の把握を阻害する。

 必死に立ち上がり、目に流れ込む血を拭った。

 方向感覚が失われているなか、彷徨さまようようにあたりを見渡す。

 すると、視界を覆わんとする土煙に、一瞬だけ隙間ができた。

 その向こうには、見たくない光景が広がっていた。

 橋は破壊され、橋上で戦っていた第一騎士団は潰走状態。

 渡河部隊は急流に晒されて河の中に釘づけ。もはや流されるか射られるかの選択肢しか無い。

 王国軍の圧倒的敗北。

 誰もそれを否定し得ない光景だった。


 土煙は収まらず、あたり一帯を覆っている。

 ここは敵陣のさなかだ。

 すぐに行動を起こし、この土煙が収まる前にここを出なければならない。

 耳鳴りが徐々に収まるなか、必要なものを探す。

 橋を爆破した部隊は、橋のたもとにまだ居るはずだ。

 土煙に紛れて近づくと、数人の魔族が居た。

 木箱に火矢を放った部隊だ。

 どうやら爆発の規模が予想以上だったようで、土煙の中、状況把握と報告にせわしなく動き回っている。

 彼らの指揮系統も一時的に損なわれているようだ。

 ひとりが隊列から離れている。

 俺は彼の背後に近づいた。

 怒号の飛び交う喧噪のただなかだ。音を立てないようゆっくり行動する必要は無い。

 素早く一気に近づき、背中にとびかかる。


「ぐっ……!?」


 両足で相手の両腕を制しつつ、右腕を首にぐるりと回す。

 そのまま左の奥襟を摑み、絞り上げる。

 手の甲でけいどうみゃくを圧迫し、脳への血流を止めた。


「……っ!? …………っ!」


 相手は声を出せない。

 しばらくして、がくりと崩れ落ちた。

 すかさず矢筒を奪う。

 これが必要だったんだ。

 それともうひとつ。

 周囲に目をやる。

 橋の傍にあるはずだ。


「……よし」


 あった。

 あの木箱だ。

 火薬ってやつは使用量を予測し切るのは難しい。

 必ず多めに予備を用意するものだ。

 積み上げられた木箱の陰に、倒れる男を隠す。

 そして木箱のひとつを肩に担ぎ上げた。

 一辺五十センチほどで、かなり重い。

 ひとりで運ぶものではないのだろう。

 木箱の端が肩に突き刺さる。

 ひどく痛いが、四の五の言っていられない。

 あとは馬だ。

 爆破前は、渡河部隊への対応に関する指示のため、騎乗した伝令が走り回っていた。

 彼らがまだ周囲に居るはずだ。

 喧噪の中、耳をそばだてる。

 土煙の向こうで蹄の音がする。

 視界が利かないため、注意深くゆっくり歩いているようだ。

 土煙の隙間から視認し、横から近づく。

 ここは一気にいくしか無い。

 走って近づき、担いだ木箱ごと体当たりを食らわせる。


「ぐぁっ!?」


 すかさず馬を奪い、片手で手綱を握って走り出す。

 叫び声を背に受け、土煙を突破した。

 このまま上流へ向かう。

 あの時。

 橋上で木箱に火矢が射られた時、俺は退がらず対岸に向けて走った。

 この戦いはすでに敗色濃厚だが、まだ賭けるべき目はある。

 そのために対岸へ飛び込んだのだ。

 向かう先は支流だ。

 頭の中に周辺の地図を思い出す。

 エルベルデ河上流、魔族領側に流れ込む支流の場所は、デゼル大橋からそう離れていない。

 せいぜい数キロだ。急げばすぐに着く。

 地図を見る限りでは、支流は、本流のエルベルデ河には当然劣るが、それなりの大きさだった。

 あれを堰き止めれば、エルベルデは激流となるだろう。

 なぜ気づかなかったのか。

 渡河作戦を予想した時。軍議の時。気づくチャンスは何度もあった。

 そもそも、渡河作戦を魔族軍が読んでいる可能性を、なぜ疑わなかったのか。

 俺が気づいたんだから向こうだって気づくに決まっている。

 であれば対策を打ってくるのは当然だ。

 自分の愚かさを呪いながら、馬を全速で走らせる。

 フェリシアや隊員たちは、まだ持ちこたえているだろうか。

 持ちこたえていると信じるしか無い。

 デゼル大橋へ敵戦力を釘づけにする作戦はもう使えないが、爆破後は敵も指揮系統を失っている。

 渡河部隊が行動の自由を取り戻せば、引き返すにせよ渡り切るにせよ、生き残るチャンスはまだあるはずだ。

 支流が見えてきた。

 そして魔族軍の工作部隊の姿も。

 守りは薄い。ここに敵が攻めてくる事態は想定していなかったのだろう。

 矢が射掛けられてくるが、身をかがめてこのまま突っ込む。

 悠長なことはしていられない。


「ぐぅっ……!」


 矢の一本が俺の左肩に刺さる。

 痛みに頭がぜ、視界が揺れるが、尚も突っ込む。

 右肩には、担いだ木箱がぎりぎりと食い込んでいる。

 あと少し!

 そう思ったところで、馬が激しくいななく。

 体に矢を受けてしまったのだ。

 馬はそのまま前方へ倒れ、工作部隊へ馬体を投げ出した。

 それを避け、工作部隊が四散する。

 落馬した俺は、すかさず立ち上がって支流へ向けて走り出した。

 体がずきりと痛む。

 今の衝撃でどこかの骨が折れたかもしれない。

 川岸に辿り着いて下をのぞき込む。

 支流は眼下四メートルほどのところを流れていた。

 いや、正確に言うと流れていない。

 のうがうず高く積まれ、水流を堰き止めている。

 工作部隊員が剣を抜いて走ってくる。

 俺は意を決し、木箱を担いだまま土嚢の山に飛び降りた。


「ぐぅ!」

刊行シリーズ

煤まみれの騎士 VIIの書影
煤まみれの騎士 VIの書影
煤まみれの騎士 Vの書影
煤まみれの騎士 IVの書影
煤まみれの騎士 IIIの書影
煤まみれの騎士 IIの書影
煤まみれの騎士 Iの書影