Ⅲ ⑧

 土嚢の上に降りる、というより落ちる俺。

 もはや全身がぼろぼろだ。

 だが思い浮かぶのは激流に耐えるフェリシアたちのことだった。

 頼む。まだ耐えていてくれ。

 木箱を土嚢の上に置き、背負った矢筒から火矢を抜く。

 やじりの根元に紙火薬が巻かれており、着火部にはおうりんが塗られていた。

 扱い方は分かる。魔族の武装について調べておいて良かった。

 黄燐部分への摩擦で火がつくのだ。

 靴底で火矢をこする。

 しゅっ、という音がして鏃が燃え出した。

 木箱を見やる。

 この木箱、中はどうなっているのだろうか。

 火薬が隙間なくみっしり詰まっているのなら、この火矢を刺した瞬間に爆発する。

 隙間があるなら、爆発まで少しの猶予があるだろう。

 さっき、橋で爆発した時はどうだっただろうか。

 背後で木箱に火矢が刺さる音がしたあと、爆発まで間があったか?

 思い出せない。

 まったく不甲斐ない。

 だが関係ないか。

 どの道この火矢は刺す以外に無いのだから。

 見上げると、工作部隊が川岸に辿り着いていた。

 そして俺の手にある火矢を見て、凍りつく。

 何か言う場面か?

 花火は好きかい? とか。

 いや、要らないな。

 相手を吹き飛ばす時に言うならともかく、吹き飛ぶの俺だしな。

 判断が鈍る前に、矢を振りおろす。

 がつり、と音を立て、鏃が木箱に食い込んだ。

 すかさず土嚢の山から支流へ飛び込む。


 ────俺が河に入ると同時、轟音が響いた。


 至近での爆発によって、凄まじい衝撃が水中の俺に叩きつけられる。

 熱波が水面を叩き、爆風が水中に奔流を生んだ。

 俺は竜巻の中に放り込まれた手布しゅきんのように、一切の抵抗ができないまま激流に全身を玩弄される。

 土嚢が千切れ飛び、大量の砂が周囲に爆散した。

 一気に流れ込む水が、その砂をみ、局所的な土石流になる。

 水中を木の葉のように舞わされている俺に、その土石流が叩きつけられた。

 まるで暴れ牛に襲いかかられたかのような衝撃が背中を襲う。

 いや、腹か? もはや分からない。

 奔流は俺の全身を握りつぶそうとし、次の瞬間には引き千切ろうとする。

 自分が今、どういう体勢でどちらを向いているのか分からない。

 四肢が付いているのかも分からない。

 息もできない。

 目も開けられない。

 開けても土砂らしきものが視界を覆うだけだし、そもそも視覚情報を脳がまったく処理できない。

 次から次へと支流に流れ込む水は、俺を路傍の石のように事も無く蹴り飛ばし、そのまま下流へと向かっていく。

 とにかく水は流れ込んでいる。

 支流を流される俺のこのありさまが何よりの証明だ。

 自分の命が危うい状況ではあるが、俺はやるべきことをやった。

 支流の堰き止めを解除したのだ。




「げほっ! げほっ! がはっ! …………はぁ……はぁ」


 どれぐらい流されただろうか?

 下流の川岸に流れ着き、酸素をむさぼる俺。

 川岸の向こうには乾いた大地が広がっていた。

 そして頭上には照りつける太陽。

 視界のすべてが荒涼としており、一瞬死後の世界かとまがうほどだ。

 だが俺は生きている。

 その証拠に全身が痛いし、肩には矢まで刺さっている。

 支流に突入する前に工作部隊から射られたこの矢は、根元近くで折れていた。

 まあ当然だ。

 僅かに残ったシャフト部分を右手で摑む。


「ぐあぁっ!!」


 思い切り引き抜いた。

 そして折れた矢を放り、そのまま仰向けに倒れ込む。


「はぁ……はぁ……」


 自分の状態をチェックする。

 ひとまず四肢は無事だ。

 もっとも無事というのは〝ちゃんとくっついてる〟という意味だが。

 まず左腕は折れている。

 また左右とも手の小指が折れている。

 それに肩の矢傷のほか、裂傷と打撲傷だらけだ。

 足については、骨は無事のようだ。

 右足首が捻挫しているようで、かなり痛みがあるが、何とか歩けるだろう。

 それとろっこつが折れている。

 おそらく一本では済んでいない。


「はぁ……ぜぇ……」


 こんな状態でも生きている。

 奇跡に近いのではないだろうか。

 祝福を与えられていない男なのにな。

 神の祝福じゃないなら、何が俺を護ったというのだろう。


「………………」


 倒れたまま空を見上げる。

 もう、指先すら動かしたくない。

 ひどく疲れた。ひどく眠い。

 静かに目を閉じる。

 このまま、意識を手放してしまおう。

 思考を霧散させる。

 心地よい闇に体を溶かしていく……。

 ……………………

 ……………………

 ……………………

 ……………………




「………まあ、そういうわけにはいかないよな」


 地に手をついて立ち上がる。

 これほど精神力を要する起床は生まれて初めてだ。

 そして立ち上がった俺は、太陽の位置を確認した。


「エルベルデ河は……あっちだ」




 人影のない荒野を歩き続ける。

 そろそろ夕方だが、太陽はいまだ手心を加えようとはしない。

 ずぶ濡れだった体はとうに乾き切っていた。

 かわよろいが半壊していたため、バラして、折れた腕の添え木にし、残りは捨てた。

 そのぶん軽くなっているはずの体は、しかし鉛のように重たかった。

 全身から滲む汗が傷をめ、激痛をもたらす。

 さっき嫌と言うほど水を飲んだというのに、喉は渇きに張り付いている。

 暑さにあえいで息を吸うと、折れた肋骨が悲鳴をあげる。

 捻挫した右足首がずきずきと痛む。

 肩の矢傷がじりじりと痛む。

 頭の傷が開いて血が顔を伝う。

 こんな状態でも歩き続ける。

 そうするよりほか無いからだ。


「今日は……記念すべき日だな……」


 背後で火薬が爆発するというな経験をした。



 なんと一日のうちに二回もだ。


「貴重な体験だよ……」


 さすがに三回目は無いだろうな。

 とにかく、これで生きてるんだから運が良い。

 それに川に流されて生きてるのも幸運だった。

 エルベルデ河に比べて小さい支流だからというのもあるが。

 そのエルベルデの方で流れに耐えていたフェリシアたちは助かっただろうか。

 橋の爆破から支流の解放まで、そう時間は経っていない。

 数キロしか離れていない支流へ馬で早駆けし、そのまま突っ込んでせきを爆破したのだ。

 それこそ数分だろう。

 間に合った、と思う。

 敵の攻撃に耐え切ってくれていれば、きっと助かっているはずだ。

 そう信じる。



 どれほど歩いただろうか。

 薄闇が下りるころ、前方に幾つもの天幕が見えてきた。

 駐屯地だ。

 魔族領に分かれる支流へ流され、エルベルデ河方面へ歩いたのだから、当然あれは魔族軍の駐屯地だ。それを背後から突いたということになる。

 慎重に近づく。

 茂みに隠れながら接近し、柵を越えて駐屯地に入った。

 妙に人が少ないことに気づく。

 駐屯地は、この背後側が高台になっていた。

 前方に駐屯地全体が見渡せ、その向こうにエルベルデ河が広がっている。

 周囲に気をつけながら、高台の前方に出て戦域を見まわす。

 見えた光景に俺は息を呑んだ。

 王国軍が戦っている。

 すでにこの駐屯地へ突入しているのだ。

 どうやら渡河部隊は河を渡り切ったようだ。

 ここまで攻め込まれた魔族軍は、兵力を総動員して抗戦している。

 だからこのあたりに人が少なかったのだ。

 橋の爆破から一転、勝ちが見えてきた。

 だが、さすがに駐屯地内での敵の抵抗は激しい。

 王国軍も、あと一歩というところで攻め切れないでいる。

 となれば俺のやることは陽動とかくらんだろう。

 この駐屯地後部に敵を引き戻して、前線を薄くするのだ。

 周囲を見まわすと、馬が四頭、繫がれていた。

 あれを借りよう。

 次に篝火を探す。

 すでに日が落ちつつあるので探しやすく、すぐに見つかった。

 魔族の篝火は、幾つかの松明たいまつを鉄籠に押し込んだものだ。

 籠を倒し、火のついた松明を四本取り出す。

 それを持って馬に近づき、くらくくけた。

 馬は少し暴れたが我慢してもらう。

 大丈夫、火傷やけどはしないさ。

刊行シリーズ

煤まみれの騎士 VIIの書影
煤まみれの騎士 VIの書影
煤まみれの騎士 Vの書影
煤まみれの騎士 IVの書影
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煤まみれの騎士 Iの書影