第二章 ヴァイス、初めての育児 ①
初めての子育ては、一寸先も見通せない真っ暗な草原を何の頼りもなく進む事に似ていた。
なにせこれまでの人生で培ってきたあらゆる知識や経験が全く役に立たないんだ。はっきり言って俺は困り果てた。思い付きの行動だったから何の準備もしてなかったし、この元奴隷の少女には普通の子育てとはまた違う難しさが付き纏ってもいたからだ。俺は俺なりのやり方で目の前の問題に対処していくしかなかった。
ああ、こう言うとあいつを拾った事を後悔してるように聞こえるかもしれないが、けれど全くそんな事はない。
それに────悪いことばかりじゃなかったしな。
ちょっと普通とは違った子育てかもしれないが、何だかんだ俺はあの手探りな日々を楽しんでいたんだと思う。
そんな俺の苦労を、喜びを、ちょっと聞いてくれるかい。
初日から俺は頭を悩ませた。
だから、とりあえずこの売れ残りエルフを自分の娘にすることに決めた。
決めた…………が、そこで気が付いた。この子には名前がないのだ。いや、今はリリィという名前があるんだが、当時はなかった。適当な名前を付けようと思ったが…………そう言われると思いつかない。
アイゼン、ジョセフィーヌ、モンブラン…………あらゆる名前を口に出しては、違うなと首を
…………そんな時、俺に電撃が走った。完璧な案が頭に浮かんだんだ。
────この子が初めて喋った言葉を名前にしよう、と。
それから俺はリリィに言葉を教えることにした。当時のリリィは文字の読み書きはおろか、俺の話す言葉を理解することすら出来ない
…………が、だ。
そもそも、その前にやることがあった。まずはこの死んでいるリリィの心を元に戻してやらなければならない。いきなり知らない男が目の前にやってきて、今から俺がお前の父親だと言っているのに、怖がりもしなければ拒否もしない。そんなのは正常な少女の姿ではないだろう。
────この少女を、人並みに戻してやらなければならなかった。
初めに言っておくと、俺は子育ての経験もなければ奴隷を真人間に戻す方法を帝都で習った訳でもない。まだ
「…………あー、えーっと…………おれ、おまえの、ぱぱ。おーけー?」
「…………」
「おれ」で俺を指差し「おまえ」でリリィを指差す。そんな俺の完璧なコミュニケーションを、リリィは無視という最高の方法で迎え撃ってきた。
「おーい?」
ひらひら、とリリィの前で手を振ってみる。リリィは何の反応もしない。ただ、ぼーっと虚空を見つめるばかり。
「…………どうすりゃいいんだよこれ」
俺の育児計画は、早くも頓挫してしまった。これならまだ思いっきり反抗された方が何倍もマシだった。
「はあ…………まあいっか。そのうち仲良くなれるだろ。とりあえず風呂だ風呂。よく嗅ぎゃこいつ、超くせえし」
まあ当たり前といえば当たり前なんだが、引き取った初日のリリィはめちゃくちゃ臭かった。このままでは俺の家がヤバい匂いで侵されてしまう。俺は服を脱ぐと、リリィが身に纏っていた(着ていた、と言えるほどまともなものではなかった)布をむしり取った。意外にも、その
そのままリリィの手を引いて風呂場に直行する。
水魔法と火魔法を使って瞬時に浴槽にお湯を張り、リリィを風呂椅子に座らせる。背中側に回ると、水色の長い髪が俺の視界いっぱいに広がった。これは洗うのに苦労しそうだ。
「あったかいのがいくぞー」
湯船から
「ははは」
長い髪がぺちゃーっと張り付き、まるでお化けみたいになった。それが面白くて思わず声が漏れた。
「わしわしするぞー」
女性の髪は大切に扱えというが、リリィの髪はそれどころじゃなかった。ゴミだかホコリだか分からないものが沢山付着している。俺は
恐らく石鹼で身体を洗うのは初めてだったんだろう、リリィは石鹼が目に染みたのか、いつの間にか目を閉じていた。思えばこれが、リリィが俺の前で見せた最初の意思表示だったかもしれない。
長い、長い時間を掛けリリィの髪を洗い終えた俺は、次に身体を洗う事にした。少女の身体を洗うのは初めてだが、特に
「どぼーんするぞー」
あわあわお化けになったリリィをお湯で洗い流すと、俺はリリィを湯船にぶち込んだ。リリィは相変わらず無反応のまま、恐らく人生初めての湯船を味わっていたが…………石鹼で洗ったからだろうか、さっきより少しだけ輝いて見えた。
自分の身体を素早く洗い、俺は湯船にダイブした。いくらリリィが子供だとはいえ二人で入ると湯船は少し窮屈だったが、まあ悪くない気分だった。
リリィは俺の方を向いてはいるが、俺を見ていないのは明らかだった。きっと何も見ていないんだろう。
「なあ、おい。これからよろしくな」
俺はリリィの頭を
リリィを抱っこして風呂から出た俺は、風魔法で身体を乾かし、服を着せ────る服がない事に気が付いた。
折角綺麗にしたのに、またあのボロ布を着せては意味がない。とはいえ少女の服など持っている訳もない。ゼニスにも勿論真っ当な服屋はあるが、時間が悪かった。既に空は黒く染まっている。ゼニスでは真っ当な店ほど早く閉まるのが常識だった。
「困ったな…………裸のままって訳にもいかねえし」
正直言えば、家の中であれば裸でも問題はない。当分の間リリィを外に出すつもりはなかったし。
だけど…………流石にな?
犯罪臭が凄い。奴隷を買っている時点で犯罪だろ、という意見もあると思うがここは帝都ではなくゼニスである。善悪は自分で決められるのがこの街のいい所だ。
「…………とりあえず、適当な布でも巻いとくか」
俺は棚からいい感じの布を取り出し、リリィの胴に巻いた。何の為に買った布なのかは思い出せないが、意外にもそれはリリィにジャストフィットしていた。三周ほど巻いた所で布は途切れ、丁度胸から膝までをカバーする事に成功した。まだ「着ている」とは言い難い有様ではあったが、さっきのボロ布に比べればだいぶマシだと言える。
「…………とりあえずこれでいいか…………なんかどっと疲れたな…………」
慣れない事をしたからだろう、心地よい疲労が俺を襲っていた。
「メシ食ってねえけど…………いいか。もう今日は寝ちまおう」
俺はリリィを抱きかかえると、寝室に移動した。一人用のベッドだが、リリィが小さいお陰で二人並んでも落ちることはなかった。
「今日からこのふかふかで寝るからなー」
枕を少しリリィ側に出してやり、その小さな頭を枕の端っこに載せる。リリィの頭がずり落ちない事を確認して、俺は目を閉じた。
初日は、そんな感じだった。



