第二章 ヴァイス、初めての育児 ③

 俺はリリィが目覚めるまでの間、頰が緩むのを自覚しながらその寝顔を見つめていた。


 ────これでリリィが俺に対して前向きになってくれれば良かったのだが、育児というのはそう甘くはなかった。


「おれの、なまえ、ヴァイス。わかるか?」

「…………」

「あなたの、おなまえ、おしえて?」

「…………」

「…………ダメか」


 座らせたリリィの前にしゃがんで目線を合わせ、出来る限り優しい声で話しかけてみたものの、リリィは相変わらずの無反応を貫いている。まあダメだろうとは思っていたが、他にどうすればいいのかも分からなかった。

 だってよ、ちびっ子に言葉を教えるのとは訳が違うんだよ。理解出来る奴の知識を増やすのと、理解出来ない奴を理解出来るようにするのとでは全く違うだろ。


「まずはこの無反応を何とかしないとな…………」


 問題を切り分けて考えよう。まずはこの無反応だ。無反応を解消した先に言語学習があり、そしてその先にリリィの名前がある。

 改めて説明すると、今はリリィという立派な名前があるんだが当時はまだなかった。俺はこの子が初めて喋った言葉を名前にしようと思っていて、今はその第一段階、コミュニケーションを取る所でつまずいている。


「…………ったってなあ…………」


 無反応を解消するって…………一体どうすればいいんだ?

 そもそもどうしてリリィは無反応なんだ?

 リリィの心は今、どういう感じになっている?

 ガキのことなんか何一つ分からなかった。俺は大人だからだ。だが俺にもガキだった頃はある。その頃の記憶を掘り起こすことで、何かヒントが得られるかもしれない。俺はしばし記憶の海を泳ぐことにした。


 ────ゼニスの大半の奴らとは違い、俺は極々一般的な家庭に生まれ育った。帝都生まれ帝都育ち。親の愛情も人並みには受けてきたはずだ。もう十年は会っていないが、変わらず帝都に住んでいるであろう両親は、学校を卒業してすぐ帝都を飛び出した俺を今も心配しているに違いない。それについては申し訳なく思っている。

 …………だけど仕方ないんだよ。教師の奴ら、そろいも揃って俺に魔法省の幹部になれって言うんだぜ?

 何でも俺は帝都の歴史上でも類を見ない天才魔法使いらしく、そんな俺を大人達は放っておかなかった。だから俺は帝都を飛び出して、世界を放浪した後、今はこうして悪人の街ゼニスに根を張っている。基本的に全てが終わっているゼニスの情報は外に漏れにくく、俺には都合が良かったって訳だ。帝都はまだ俺を魔法省にぶち込むのを諦めてないって話だからな。

 そうそう、魔法省といえば俺の同級生が魔法省長官補佐にまで上り詰めているらしい。魔法省の長い歴史でも類を見ないスピード出世だそうだ。俺は学生時代友人には困らない方だったんだが、思えばあいつと一緒にいる時間が最も長かった気がする。

 冗談の通じない堅物ではあるんだが、一緒にいると妙に居心地が良かったんだよな。クラスの奴らはあいつの事を「陰気臭い」と遠巻きにしてたが、実は見てくれも悪くなかった。あの野暮ったい眼鏡さえやめてりゃ人気者になっていたかもしれない。

 …………話がれた。大事なのはもっと昔の話だ。

 とはいえ、ガキの頃の記憶なんかほとんど残ってなかった。帝都を飛び出してからの十年間の出来事があまりにも濃すぎて、帝都に住んでいた時の思い出はどんどん記憶の彼方かなたへ押しやられてしまっていた。覚えていることといえばおやの背中のデカさとか、母親に抱っこされた時の安心感とか、そういう抽象的なものばかりだ。勿論、どうやって言葉を覚えたかも記憶にない。

 まあだが、大抵の奴がそんなもんじゃないのかなとも思う。小さい頃の出来事を鮮明に覚えてる奴がいたら、それはそれで怖いだろ。逆に、そんな記憶に残るような出来事がなかったことが一番の幸福と言えるかもしれない。

 ゼニスには幼少期の恐怖や憎しみを、今も抱えて生きている奴が大勢いる。


「…………出かけるか」


 どうやら俺の記憶の中には正解はないらしい。それなら他の誰かに訊くしかないだろう。そういえば昨日ホロが「何でも訊いて」と言っていたような気もする。申し訳ないが早速頼らせて貰うとするか。


「少し出かけてくる。すぐ帰ってくるからいい子にしてろよ」


 変わらずぼーっと椅子に座って虚空を見つめているリリィの頭を撫で、俺はホロの店へと向かった。



「邪魔するぞ」


 ホロの店は相変わらず閑散としていた。いや、相変わらずなのかは分からないが、少なくとも昨日今日と客の姿は見当たらない。この男根主義の極みのようなゼニスで、女性服専門店にどれほどの需要があるのかは俺には分からない所だ。


「いらっしゃい────ってヴァイスじゃない。どうしたの、何か訊きに来たの?」

「ああ。少しな」


 カウンターに肘をついていたホロが、俺の姿を認めると渋々といった様子で背伸びをした。おおよそ客に対する態度ではないが、ゼニスでそんな事を気にする奴はいない。


「エルフの事についてなんだが」

「アンタが飼ってる?」

「そうだ」


 飼ってる、という言い方がまさにゼニス節だ。奴隷が当たり前に日常に存在する街。


「話しかけても全く無反応でな。どうすればいいかと頭を悩ませてる所だ」

「確かに私が着替えさせてる時もお人形さんみたいだったわね。でも奴隷って基本そんな感じじゃないの? 元気な奴隷なんていないでしょ?」

「それはそうなんだが。だが全く無反応というのも極端だろ」

「確かにそうね。それで、私に何を訊きに来たのよ?」

「あいつを元気にする方法を知ってたら教えてくれ」


 俺の質問にホロはうーんとうなり、顎に手を当てた。


「…………思いつかないわねえ。これまでの人生が原因でそうなってるんだとは思うけど。子供を育てた経験もないし詳しいことは何も言えないわ。ごめんねヴァイス」

「いや、いいさ。こっちこそ変なこと訊いて悪かったな」


 軽く手を振り店を出ようとする俺をホロが引き留める。


「あ、そうだヴァイス。ロレットさんなら分かるんじゃない? あの人、確か五人くらい子供いるらしいわよ」

「ロレットか…………確かに含蓄はありそうだが」


 だが、今は古びた酒場の店主だぞ。もう完全にじじいだし、子供を育てていたのなんて何十年も前の話だろ。


「ねえ、今晩訊きに行きましょうよ。私久しぶりにお酒飲みたいしさ」

「それが目的だろ絶対」

「違うわよ。あんまり遅くなったらあのエルフの子に悪いから、七時に酒場集合ね」

「…………勝手に決まってるし」


 果たしてあの爺に心を閉ざした奴隷を元気にする方法など分かるのか。あまり期待は出来なかったが、今はわらにもすがる思いだ。俺はホロの誘いを飲むことにしたのだった。




「愛、だあ?」


 俺達の話を聞いた酒場の店主ロレットは、開口一番そう断じてきた。


「そうですとも。その少女は今、愛を欠いています。この世に絶望しているのです。それを救えるのは他でもない、愛情に違いありません。失った愛をヴァイスくんが与えてやるのです」

「聖職者みたいなこと言いやがって…………」


 まだ時間が早いのか他の客はおらず、俺とホロはカウンターに陣取ってロレットと向かい合っていた。総白髪の爺が優しげに目を細めて似合わない言葉を並べるものだから、俺は恥ずかしくなって酒をあおった。

 俺のグラスが空になったのを確認すると、ロレットは慣れた手付きで新しい酒を差し出してくる。


「あー…………塩、おかわりくれ」


 ツマミでも注文して店の利益に貢献してやろうと思ったが、めた。サービスで貰えるツマミ塩がすぎて、わざわざ金を払って何か頼もうと思えないのがこの店の利点であり欠点だ。

 ホロはすっかりいい気分になっているようで、カウンターにうつ伏せになりながら妙に熱気の籠もった視線を俺に送ってくる。


「でもぉ、私はロレットさんの言う通りだと思うなあ。ヴァイス、アンタあの子を愛してあげなさいよ」

「…………愛するったってどうすりゃいいんだよ。俺はそっちのケはねえからな」


 俺の言葉に、ホロはわざとらしく口元を押さえる。


「きゃー汚らわしい。別に愛ってそういうのだけじゃないでしょうよ。家族愛とかそういう話じゃないの?」

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売れ残りの奴隷エルフを拾ったので、娘にすることにした2の書影
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