第二章 ヴァイス、初めての育児 ⑤

「まさか一人でご飯が食べられるようになるなんてな。この俺もびっくりだぜ」

「きっとヴァイスくんの愛情がそうさせたのでしょう」

「愛情だあ? 別に、そんなものを特別与えてやった記憶はねえけどな」

「いやいや…………ヴァイスくんの様子を見ていれば分かりますよ」


 ロレットはどうも、このあいだ的外れなアドバイスをしたものだから引き下がれなくなっているらしい。リリィが急に俺に歩み寄るようになったのを、愛情のせいだと言い張っている。おめでたい奴だ。奴隷という生き物は厳しい世界を生き抜いてきている。恐らく俺に従う方が賢い選択だと判断しただけだろう。


「まあ何でもいいよ。とりあえずこれであいつに言葉を教えることが出来そうだ。今までは取り付く島もなかったからな」

「良かったですねえヴァイスくん」


 妙にねちっこいロレットのにやけ面が気になりはしたが、いい感じに酔いが回った俺はそれからリリィの事を小一時間ほど語ってやった。何度も風呂に入っているうちに髪が綺麗な水色になっていった事とか、数日前から寝る時に俺の服を摑むようになった事とかを。



 エルフというのは元々、人間より遥かに頭のいい種族だ。そしてその上位種であるハイエルフはエルフより遥かに頭が良かった。

 俺に心を開き始めたリリィは、食事やトイレをすぐに覚えた。風呂はまだ一人では入りたくないらしく俺と一緒に入りたがるものの、初日に比べたら随分手が掛からなくなったと言っていい。その代わり俺が出かけようとすると寂しそうな顔をするようになったのは心が痛かったが。


「あー」

「あー」

「いー」

「いー」


 言葉を教える、といっても何から手を付けるべきか分からない。悩んだ末とりあえず俺は発音を教えることにした。リリィはやはり賢く、俺が大げさに口を開いて声を出してみせると、その意図をったのか俺のをするようになった。


「らー」

「やー」

「らー」

「うやー!」

「うーん、ちょっと違うな…………」


 一文字ずつ話す練習をこの何日かやっているけど、どうにもら行が上手うまくいかないんだよな…………リリィは見たところ四、五歳だと思うんだが、この頃のエルフ的には普通のことなんだろうか。誰かに相談しようにも、このゼニスでそんな平和的な話が出来る相手などそういない。ロレットもエルフの子供を育てた事はないだろうし。


「ま、いっか」


 別に急いでる訳でもないしな。リリィが声を出せるようになったのは嬉しいが、焦るのはよくないだろう。俺達は着実に前に進んでいるんだ。


「よーしご飯にするぞー」

「うやー」


 リリィは俺の言葉に反応し、大きく手をあげた。もしかしたら言葉の意味が分かっているのかもな。何でって、なんか嬉しそうにしているから。「ごはん」という音と食事を結びつけることくらいはしているかもしれない。なんたって、リリィはハイエルフだからな。


「うー」


 リリィが足をぱたぱたさせ、おなかからよじ登るようにしてリビングの椅子に座る。うちの椅子はリリィには少し高くて、普通にお尻から座るのはまだ無理みたいだった。しかしリリィは、一旦座面に完全に上り、向き直るようにして座る技をいつの間にか編み出していた。やはりリリィは賢い。

 この数日で変わった事は無数にあるが、これもその一つで、俺がキッチンで料理を始めるとリリィはリビングの椅子に座って待つようになった。そして俺が料理を終えたのを感じ取ると、俺の傍まで歩いてくる。折角苦労して椅子に上ったのにどうして降りてくるのかはリリィにしか分からないが、まあ俺としては嫌な気分ではなかった。何だか好かれているような感じがするしな。


「よーし、ご飯だぞー」

「ごはんやおー」


 俺はリリィの脇を支えるようにして抱き上げると、椅子に座らせた。もしかしたらリリィは俺に椅子に乗せて貰えるのを分かって降りてきているのかも。だとしたらやはり賢い。リリィは天才かもな。将来はとんでもない学者になるかもしれん。

 …………リリィの名前がリリィになるまで、もう少し。



 最初に喋った言葉を名前にする、と決めたものの、勿論『あー』などにする訳にはいかない。そこにはある程度基準があるのだ。


「あー! いー! うー!」


 椅子に座ったリリィが文字を指差しながら声を出していく。やはりハイエルフというべきか、リリィは一度教えただけで文字と音の結びつきを暗記していた。この調子なら言葉の意味を覚え、日常会話をしだすのもそう遠くない出来事だろう。俺はリリィと話す未来を想像し嬉しい気持ちになった。


「やーいーゆーいぇーろー」


 そんなリリィも、ら行はまだ苦手だった。こればかりは記憶力などとは関係ないだろうし仕方がない。リリィの名前が決まるのは、まだもう少し先の事になりそうだ。俺は雑貨屋で購入した子供用の絵本を何冊かリリィに与えて、その隙に朝食で汚れた食器を洗うことにした。リリィはテーブルに置かれた絵本に興味津々の様子だった。最近のリリィは好奇心旺盛で俺の周りを離れようとしないから、一人で作業するにはこうして興味を逸らす何かが必要だった。


「りりー!」

「!?」


 それは、突然の事だった。

 あまりに綺麗なら行の発音に、俺はびっくりして食器を落としリリィの方を振り向いた。リリィは絵本の表紙を指差していた。目を凝らすとどうやら作者の名前を指差しているようだった。『リリィ・リード』そう書いてあった。


「いいーいーど!」

「ありゃりゃ」


 さっきのはどうやらまぐれだったらしく、絵本作家リリィ・リードはいいーいーどさんになってしまった。リリィはその後も目についた言葉を手当たり次第に読み上げていったが、やはりら行は言えていなかった。俺はしばらくそれを眺めた後、キッチンに向き直った。


「…………名前はリリィにしよう」


 決めてしまえば、それはとてもしっくりくるのだった。

 こうして名も無きエルフの奴隷は、俺の娘リリィ・フレンベルグになった。



 そんな訳で昔話は終わり、これからは現実の話に戻るわけだが。

 リリィが俺の娘になってから約一年が経過していた。


「リリィ、ホロねーちゃんの所行くか?」

「いく! りりー、ほろおねーちゃんだいすき!」


 ら行も完璧になったリリィは、今や普通に会話が出来るようになった。流石はハイエルフの頭脳といった所か。数字の計算も瞬く間に覚え、ホロの店では立派にお金のやり取りも披露した。先の事を考えると、そろそろ魔法を覚えさせてもいい頃合いかもしれないと考えている。


「ぱぱ、はやくはやく!」

「はいはい、ちょっと待てって」


 リリィが俺の服を摑んで玄関に引っ張っていこうとする。俺はリリィにお出かけ用の帽子を被せ、片手で抱っこすると、残った片手でテーブルの上を軽く片付けて外に出た。


「よーし行くぞー!」

「おー!」


 空を見上げると、お出かけには丁度いい晴天だった。雲一つない青空は見ているだけでどこかすがすがしい気持ちになる。


「ぱぱ、いいおてんきだねー!」

「そうだなあ、きっとおひさまもリリィの事が大好きなんだと思うぞ」

「そうかなあ? えへへ、やったあ!」


 リリィを抱っこしながら大通りへと歩くこの時間が俺は好きだった。特に理由のない幸せがここにある気がする。


「おっでかけ! おっでかけー!」


 リリィは高い所が怖くないのか、俺に抱っこされているのにしがみつくこともなく両手を広げて喜んでいる。死んだような目をしたあの頃のリリィは、もうどこにもいない。


「ぱぱー、きょうはおよふくかっていー?」

「ダーメ、この前買ったでしょ」

「ぶー」

「膨れてもダーメ」


 俺はリリィを甘やかすつもりは全くない。子供の言う事を何でも聞いちゃうような親にはならないぞ。結局そういうのが子供をワガママにさせて、後々子供自身が苦労することになるんだよ。子供の為を思えばこそ厳しくしないといけないと俺は思うね。何も言わず親元を飛び出した俺みたいな人間に育児論を語られたくはないだろうけどさ。


「おねがいーひとつでいいからー…………」


 リリィが潤んだ目で俺を見つめてくる。俺は耐えきれなくなり、視線を逸らした。


「…………ひとつだけだぞ」

「やったあ! ぱぱだいすきー!」

刊行シリーズ

売れ残りの奴隷エルフを拾ったので、娘にすることにした2の書影
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