第五章 ヴァイス、娘の為に奔走する ⑧

 地図の辺りは、一言で言うと「はいきょの群れ」だった。半分崩れたような建物がまばらに並んでいて、ひびれた道にはれきやら木材が散乱している。一瞬ゼニスに戻ってきたのかと錯覚するが、間違いなくここは帝都。まさか帝都にもこういう暗黒街があるなんてな。


「ぱぱ…………りりーちょっとこわい…………」

「抱っこするか?」

「ん」


 俺の服の裾を摑んで歩いていたリリィを抱っこすると、リリィはぎゅうっ…………と俺の身体にしがみついた。流石に襲われる事はないだろうが、警戒はしておいた方がいいだろう。ここは間違いなく帝都の中で一番治安が悪い地区だ。


「…………一応人は住んでるのか」


 人の営みがあるようには見えないが、ちらほらと人が歩いている。着ている服は皆一様にボロボロで、中には靴を履いていない者もいる。道理でバスが近くまで行かない訳だ。道も通れなければ、そもそもこんな所に用がある人間など皆無だろう。

 ジロジロと向けられる視線を無視しつつ歩いていると、ついに地図の場所に辿り着いた。


「ここか…………」


 その建物は周囲の家だったものよりもまだかろうじて建物の形を保っていた為、そこが目的地だと分かった。看板もなければ呼び込みもいない。このオンボロ小屋が工房だと判断するのは外見からでは不可能だろう。


「邪魔するぞ────」


 そのまま取れてしまうんじゃないかと不安になりながらドアを開け、中に入ると、そこには見違えるような立派な工房が────という事もなく、テーブルとベッドがぽつんと置かれているだけのほこりっぽい部屋があるだけだった。

 …………何が工房だ。エスメラルダ先生、まさか冗談を言った訳じゃないだろうな?


「────ぁんだァ…………?」


 地の底からしわがれた声が聞こえてきた。よく見れば、床に小汚い爺が転がっている。ボロボロの服に、いかにも「酒で太りました」と言わんばかりの膨れた腹。ベッドがあるのにどうして床で寝ているのか…………きっと酔ってそのまま寝てしまったんだろう。すぐ傍には空になった酒瓶が転がっていた。


「エスメラルダ先生の紹介で来たんだが。すごうでの杖職人というのはアンタの事か?」


 爺はのっそりと身体を起こした。てっぺんほどまで禿がった頭に、壁の隙間から差し込んだ光が反射して光る。


「エスメラルダだぁ…………? こりゃまた懐かしい名前だなァ。いかにも俺ァ帝都一の杖職人だが…………ガキ連れたお坊ちゃんが一体何の用だ?」


 爺の鋭い目が俺を射抜く。決して質のいい目ではないが、刃のように研ぎ澄まされている。ただの飲んだくれオヤジという訳ではなさそうだ。


「娘の為に杖を作って欲しいんだ。クリスタル・ドラゴンの角を用意したんだが、扱える職人がいなくてな」


 魔法鞄からちょっとした木材ほどの大きさの角を取り出して、爺に見せる。爺はさして興味もなさそうに薄く光る角に視線をやった。滅多に見られるものでもないはずなんだがな。


「…………確かにそれは並の職人にゃあ扱えねェな。あいつが俺を紹介するのも分かるってもんだ」

「なら────」


 俺の言葉を、汚い声が遮った。


「────断る。こちとらもう職人は辞めたんだ。どうしても作って欲しいンなら、とびきり美味い酒でも持って来るんだな」




「…………とびきり美味い酒、ねえ」


 酒なんてどれも同じだろ、と思っている俺にとってそれはなかなかの無理難題だった。帰りにエスメラルダ先生の所に寄って事情を説明したが、酒の好みまでは分からないらしく、完全にお手上げと言っていい。まさか市販の酒では満足しないだろうし。老人の名前が『ロメロ』という事だけは分かったが事態の進展には寄与しないだろう。


「ぱぱ、おさけっておいしー?」

美味おいしいけど、リリィはまだ飲んじゃダメ」

「ぶー」


 市場通りに寄って酒店を物色してみるが…………やはりピンと来るものはなかった。店主に訊いてみても店に並んでいる商品を勧められるだけで、有力な情報は得られない。

 お酒を飲んでみたいと膨れるリリィを引きずって、俺は家に帰ってきたのだった。

 ────伝説の酒、みたいな都合のいいもの…………どこかに転がってないものか。




「…………心当たりはある、かもしれない」

「マジか」


 リリィが寝静まった頃、魔法省の制服を身に纏ったジークリンデが訪ねてきた。仕事帰りに直接来たようで何か緊急の用でもあるのかと身構えたものの、特に用事はないらしい。

 適当にもてなしながらダメ元で昼のことを話題に出してみると────なんとジークリンデには伝説の酒に心当たりがあるらしかった。


「教えてくれないか? とびきり美味い酒が必要なんだ」

「それは構わないが…………期待しているようなものかは自信がないぞ?」

「それでいいさ。今はどんな情報でも欲しい」


 俺の言葉を受けて、ジークリンデは少し悩んだ後、ポツポツと口を開いた。


「伝説の酒ではないんだが…………うちが特別なルートで作らせている酒があるんだ」

「うちというと…………魔法省か?」

「いや、実家の方だ」

「フロイド家の秘伝酒って訳か」

「そういう事になる。父親が酒好きでな。自分で楽しむ為だけに作らせているんだ」


 ジークリンデの実家、フロイド家は帝都でも有数の名家だ。詳しくは知らないが、何でも帝都創立の歴史に深く関わっているらしい。

 そんな超金持ちがひそかに作らせている酒。まさに伝説の酒と言って差し支えないだろう。


「それは分けて貰う事は出来るのか?」


 俺の問いに、ジークリンデは僅かに顔を伏せた。


「…………分からない、というのが正直な所だ。父とは仲が悪い訳ではないんだが、酒に関してだけは異様に厳しくてな…………何か手土産を持っていけば交換してくれるかもしれないが」

「手土産か…………難しいな」


 たとえどんな高級品だったとしても、金で買えるものなど受け取っては貰えないだろう。相手は超が付くほどの大金持ちだ。おまけに権力だってある。この世の殆どの物を手に入れられるはずだ。


「何かないか……………………あ」


 いいものはないかと頭の中を探していた所、妙案が浮かんだ。思わず立ち上がりそのままキッチンに走る。棚の奥を漁り────お目当ての物を発見した。


「ジークリンデ。これを持っていってくれないか?」


 リビングに戻りテーブルの上に手のひら大の小瓶を載せると、待っていたのはジークリンデの訝しげな視線だった。


「…………なんだこれは。何かの粉か?」

「塩だ」

「塩…………? ヴァイス、ふざけているのか? 悪いが私の父は冗談が通じる相手では────」

「────ただの塩じゃない。だまされたと思って渡してみてくれ。酒好きなら必ず気に入るはずだ」


 ────ロレットの酒場で酒を注文するとついてくる、ロレット自家製の『ツマミ塩』。

 ゼニスでは酒飲み全員がこれで酒を飲んでいた。この塩があまりに美味すぎて、フードメニューが全く売れないとロレットが嘆いていたのを思い出す。塩に何種類かの薬草を混ぜて作っているらしいが、詳しいレシピは分からない。ゼニスを発つ時、ロレットが餞別代わりに譲ってくれたのだ。

 ジークリンデは小瓶を手に取り、さらさらと中身を振る。


「…………極普通の塩にしか見えないがな。一体これは何なんだ?」

「それはな────とにかく美味い塩だ。俺はこの数年その塩で育ってきた。第二の故郷の味と言ってもいい。酒のツマミにすると抜群に美味いんだ…………それこそ中毒になるくらいにな」

「そうなのか…………怪しいものは入ってないんだろうな」

「それは保証する」


 レシピなど知らないんだが、まあ大丈夫だろう。数年前から食べてる俺に異常ないしな。


「…………分かった。とりあえず持っていってみるが…………期待はするなよ? 受け取って貰えないかもしれないからな」

「ああ。その時はその時でまた考えるさ」


 言いながらも俺には絶対の自信があった。酒飲みである以上、この塩の美味さに夢中にならないはずがない。



 翌日の晩、早速ジークリンデが訪ねてきた。


「────これが、そうなのか?」

「そうだ。これが我がフロイド家秘伝の酒だ」

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売れ残りの奴隷エルフを拾ったので、娘にすることにした2の書影
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