第五章 ヴァイス、娘の為に奔走する ⑨

 テーブルの上に置かれた透明な瓶にはラベルがなかった。商品ではない為、何かを表示する必要がないんだろう。パッと見では空き瓶に水でも溜めているようにしか見えないが、その正体は帝都で最も飲むのが難しい幻の酒である。


「それにしても…………まさか塩で交換出来るとはな」


 …………ゼニス名物『ロレット塩』。

 味には自信があったのだが、受け取ってくれなければ意味がない。よくもまあ帝都を代表する名家の主が、得体の知れない小瓶に入った塩をめてみる気になったものだ。


「────そうだ。ヴァイス、あの塩は一体何なんだ?」


 ジークリンデは興奮した様子で口を開く。


「どうかしたのか?」

「どうもこうも…………父があの塩を一舐めした瞬間、かれたように酒を飲み始めたんだ。酒を飲んでは塩を舐め、また酒を飲んでは塩を舐め…………はっきり言って異様な光景だった。父は結局酔い潰れるまで酒を手放さなかった」

「…………ああ、そういう事か」


 それはロレットの酒場じゃ別に珍しい光景じゃない。あの塩を初めて舐めた奴は皆そういう反応をするんだ。細かく刻まれた薬草が酒の雑味を綺麗に打ち消して、いくらでも飲めてしまうような気がするんだよな。俺も目を覚ましたら酒場の床に転がっていた事がある。


「お前は舐めてみなかったのか?」

「気にはなったが…………あの父の様子を見ると何となく怖くてな」

「別に、ただ美味いだけの塩だぞ? …………そういやお前って酒は飲めるのか?」

たしなむくらいだ。仕事が忙しくてな、なかなか飲む時間がないのが正直な所だ」

「そうか。なら、今度暇な時うちで飲まないか? その時に塩も試してみようぜ」


 譲って貰った塩はまだストックがある。ゼニスの話をジークリンデに聞かせてやることは出来ないが、第二の故郷に思いをせるくらいはしてもいい頃合いだろう。


「…………そうだな。お前がこの十年、どこで何をしていたのかも気にならないと言えば噓になる。グラスを交わすのも悪くない」


 そう言うと、ジークリンデは立ち上がった。


「とりあえず、譲って貰ったのはその二本だけだ。また欲しければあの塩を持ってきてくれ。そのうち父の方から要求してきそうな気はするがな」

「分かった。簡単に手に入るものじゃないんだが、また何とか入手してみるさ。ありがとなジークリンデ」


 また近いうちに、と言い残しジークリンデは玄関から出ていった。

 …………あいつ、仕事が忙しいと言っていたけど、その割に頻繁にうちに遊びに来るんだよな。そんなにハイエルフの事が気になるんだろうか。



 ジークリンデから酒を受け取った俺は、早速杖職人ロメロの元に足を運んだ。


「────ロメロ。おい、起きろ。幻の酒を持ってきた」

「…………ァ…………? 酒…………?」

「そうだ。これでリリィの杖を作って貰うぞ」


 この前のひげのおっちゃんの所に行くと伝えたら、リリィは珍しくお留守番してると言うので、前回と違って今日は一人だ。俺と一緒にいれば万一の事もないとはいえ、この地域の治安の悪さを考えればその方がいいだろう。

 ロメロは端々に埃が積もった汚いベッドからのっそりと身体を起こした。きっと掃除などしたことがないんだろう。掃除をした所で、家の壁の所々に空いた隙間から砂やらゴミが入ってくるから意味がないと思っているのかもしれない。まあ実際意味はなさそうだ。


「…………おめェは…………ああ、この前の子供連れか。エスメラルダの知り合いとかいう」

「そうだ。紹介状もある」


 俺はエスメラルダ先生に書いて貰ったメッセージカードをベッドの上に滑り落とした。ロメロの濁った鋭い目が『こいつの力になってやってくれ』という先生のメッセージの上で止まる。


「…………ふン、こんなもんはどうでもいいがな。幻の酒を持ってきたってのは本当か?」

「これだ」


 俺は瓶をロメロの前に差し出した。


「これは帝都のとある金持ちが自分で楽しむ為だけに作らせているものでな。勿論市場には出回らないし、滅多な事では譲って貰えない。俺はちょっとしたツテで手に入れる事が出来たんだ」

「ほう…………」


 ロメロの視線が瓶にくぎけになっている。メッセージカードに向けていた目とは大違いの、興味津々といった様子の瞳だ。


「もし俺の依頼を受けてくれるのなら、この酒を譲ってやってもいい」


 本当は頭を下げてでも受けて貰わないといけないんだが…………交渉は下手に出たら負けだ。相手がこちらの手札に興味を示している時は特に。


「…………」


 俺の言葉に、ロメロの喉がゴクリと鳴った。


「…………酒が先だ。中身がただの水だって事も有り得る。味だって信用出来ねェ。飲んでみて美味かった時だけおめェの依頼を受けてやってもいい」

「それで構わないさ。グラスはあるのか?」

「んなもんあるかよ。酒はじかみが基本だ」

「ちっ…………受ける前に口をつけられても困るんだよ。手出せ、そこに注いでやる」

「分かった。それでいい」


 文句の一つも言われるかと思ったが、ロメロは素直に両手を重ねて差し出してきた。まだ飲んだことのない幻の酒を目の前にして俺の態度などどうでもいいんだろう。

 俺は瓶を開封すると、ロメロの手にゆっくりと注いだ。嗅いだ事のない独特な匂いが部屋中に広がる。キツめの薬草のような、甘い果物のような、不思議な匂いだった。

 注ぎ終えると、ロメロは獲物を前にした野生の魔物のようなスピードで水面に顔をつけた。


「ずずズっ…………こ、こりゃア…………!」


 一瞬で酒を飲み干したロメロは、顔を上げると血走った目で俺を睨みつけた。


「何でも受けてやるッ! さっさとその瓶を寄越しやがれ…………!」

「…………そんなに美味いのか、この酒」


 二本とも交渉材料に使うつもりだったんだが…………こんな反応をされると味が気になるな。何とかこの一本だけで受けて貰って、残りの一本はジークリンデとの飲みに取っておくことにしよう。


「ほれ、好きなだけ飲め。だがしっかりと働いて貰うぞ」


 俺が酒を差し出すと、ロメロはひったくるようにそれを奪う。瓶に口をつけるや否や瓶底を天に掲げ、酒は一瞬でロメロの中に消えていった。



 杖職人・ロメロの仕事は意外にも早かった。

 ロメロに素材を引き渡した数日後、ローブが完成したとエスメラルダ先生から連絡を受け店に引き取りに行くと、完成した杖も一緒に渡されたのだ。素材を渡した翌日には先生の所に届けに来たらしい。


「見事なものだな、これは…………」


 頭部から落としただけの無骨でいびつなクリスタルの塊が、まるで魔石のように輝きを放ち、宝石のように緻密なカットが施されていた。これはもう魔法具というより一つの芸術作品と言った方が正確なんじゃないだろうか。

 手に取ると、杖は僅かにひんやりとしていた。試しに光にかざしてみると、表面に施された数多のカットによって光が乱反射し、杖は虹色に輝き出した。あの飲んだくれの爺からは想像もつかない、完璧な仕事だ。


「ロメロの奴、またあの酒を飲ませろって騒いでたよ。久しぶりの仕事にしちゃあちょっとハードだったみたいだねェ」


 先生は俺の手から杖を取ると、何度か光にかざしてうっとりとした表情を浮かべた。


「綺麗だねえ…………あいつの腕も落ちてなかったってことだ」


 あの爺が何者なのかは分からない。

 クリスタル・ドラゴンの角を加工出来るほどの技術はそうそう身に付くものではなく、それこそ有名ブランドお抱えの杖職人にでもなって、何年もあらゆる素材と格闘し続けるほどの努力と経験が必要だ。しかし有名ブランドで働いていた過去があれば、それなりに名前が広まっているはず。ここまでの技術を持ちながら名前が知られていないのは、何か特別な事情があるに違いない。

 エスメラルダ先生に訊けば何か教えてくれるかもしれないが…………ロメロの素性にそこまで興味がある訳でもない。俺は開きかけた口をつぐんだ。

 先生から杖を受け取り、ポケットに落とし込む。素材の硬度が高いからある程度雑に扱っても壊れる心配がないのが良い所だ。リリィが振り回して遊ぶ未来が見えているしな。


「ほれ、ローブも持っていきな」

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売れ残りの奴隷エルフを拾ったので、娘にすることにした2の書影
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