【第一章】身代わりで悪女として嫁ぐことになりました ②
コリンナの使い走り、コリンナがにやにやしながら泥で汚したエントランスのモップがけ、傷んだ使用人用の廊下の修理、冬になれば
そんな毎日で、一番多くの時間を過ごしていたのがこの書斎だった。
父親であるアリンガム伯爵のものに違いはないけれど、実際に使っていたのはエイヴリルである。
(
確かに、エイヴリルにとってアリンガム伯爵家を出ていくことは念願だった。
けれど同時に心配になってしまう。
「お父様やコリンナはどうでもいいわ……でも、使用人の皆が困らないようにしなくては」
エイヴリルは屋敷の皆から虐げられていたわけではない。
家族にこそ疎まれたが、使用人たちは皆エイヴリルをかわいがってくれた。
心から愛し信頼できる家族はいないが、アリンガム伯爵家で働く皆は、大切に想い合う友人のようなものだ。
取り急ぎ、今後この家のために必要になる書類をまとめていると、バンと乱暴な音を立てて扉が開く。そして父親が現れた。
「エイヴリル。公爵家への出立は明日の朝だ。お前はもうこの家の人間ではなくなる。この書斎にはもう入るな」
「ですがお父様。これまでこちらの書類の管理は私が」
「明日からはもっと優秀な人間を雇う。アカデミーの大学部にでも言えば、お前よりもずっと優秀な者がいくらでも見つかるだろう」
「ですが……」
「何だその目は」
この家の家計が火の車なのは知っている。きっと、その優秀な人材を雇うための元手となるのはエイヴリルが嫁いだことで手に入る支度金なのだろう。
自分には一体どれだけの高値がついているのだろうか。
継母と義妹の言いなりで家と領地のことを全く考えない父親に向かい、エイヴリルはできるだけゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私より優秀な方はたくさんいらっしゃることでしょう。しかしどんなに優秀な方でも状況の把握に手間取っては」
「理屈っぽい女は嫌われるぞ。お前にもコリンナのようにかわいげがあればな。……公爵様に追い出されて戻ってくるのはやめてくれよ? それではうちの家名に傷がつくし、今後公爵家を金づるとして使えなくなるからな」
「……」
考えうる限りこれ以上なく最低な部類の返答を受け取り、エイヴリルは早々と会話を諦めることにする。
これまで、エイヴリルはこの家では好まれない記憶力の良さを生かして父親を手伝ってきた。
補佐として
ついでに、執務の優先順位を把握しスケジュールを管理してきたのもエイヴリルである。
けれど、その便利さを妻やコリンナの機嫌と
(私は、お父様ではなくこの家の使用人の皆様や領民のためにお仕事を手伝っていたのよね。せめて、お世話になった皆様が困らないようにしたいのだけれど。さすがにこんなに急に追い出されることになるなんて思っていなかったから、何の準備もしていないわ。引き継ぎの資料を作ろうと思ってここに来たのだけれど……)
しかしそれはどうやら無理らしい。
「承知いたしました。失礼いたします」
「ああ。もうここに入るんじゃないぞ、いいな」
「…………」
アリンガム伯爵家の行く末を思いながら、エイヴリルはため息をついて書斎を後にしたのだった。
翌朝、公爵家からの迎えが待つ馬車の前。
エイヴリルの手を握り、使用人仲間のキーラが泣きじゃくっている。
「お嬢様……こんなに急にお別れをすることになるなんて……!」
「泣かないで、キーラ。もしお父様……いえ、家令のセバスチャンや領民が困るようなことがあったら、私たちの部屋のクローゼットを開けて。そこに書類が入っているわ。それを見れば、アカデミーを卒業された優秀な方ならすぐにアリンガム伯爵家の状況がわかるはずよ」
「でも、お、お嬢様……こんなのってひどすぎます……!」
泣き続けるキーラに、エイヴリルは額をこつんとくっつけて囁く。
「いいこと? キーラ。この家を出ていくことが私の夢だったのを知っているでしょう? どんな形であれ、私は願いが
「それは知っていますが……でも……っ」
「まもなくこの家は立ち行かなくなるかもしれないわ。もし困ったら私に手紙を書いて。いいかしら?」
「はい……でも、こ、こんなときにまで、私たちのことを気遣わなくてもいいのですよ、お嬢様……ひっく……」
「泣いていてはだめ。私、あなたのことが大好きよ。ずっと一緒にいてくれてありがとう」
最後に、親友をぎゅっと抱き締める。
エイヴリルと比較的
ちなみに、気性の激しい継母やコリンナと違い、おっとりして朗らかなエイヴリルは、アリンガム伯爵家の使用人たちの間で人気が高い。
こんな状況下でエイヴリルが
「……お嬢様、お元気で……」
「またいつかきっと会えるわ、キーラ。それまで私のことを覚えていてね?」
キーラとの別れの挨拶を終え、公爵家からの迎えが先導する馬車に乗り込み扉を閉めようとしたところで、継母が首を突っ込んでくる。
「いい? エイヴリル」
「はい、お継母様。何でしょうか?」
「向こうに着いたらすぐに支度金をもらって送金するのよ? いいわね?」
「…………」
今回の縁談は急なことだったため、支度金はエイヴリルが到着してから渡されるらしい。
それが本当に売買のようで何ともいえないのだが、エイヴリルにとっては大したことではなかったしむしろ好都合である。
継母の言葉に、エイヴリルはただにっこりと微笑んで否定も肯定もしない。
しかし継母はそれを肯定と受け取ったらしい。満足そうな笑みを浮かべた後ふんと鼻を鳴らし、勢いよく扉を閉める。
程なくして動き始めた馬車の中、エイヴリルはくすくすと笑った。
(お継母様は本当に随分な人ね。私がこれまでに一度も怒りを抱かなかったと思っているのかしら。アリンガム伯爵家と領民のためになるならば、いくらでも送金するけれど……実際はお継母様とコリンナの
──ということで、エイヴリルにこの家族のために支度金を送金する気は、全然ない。



