【第二章】契約結婚、大歓迎です ②
本当は元々知っていたことだけれど、目の前の公爵様の様子は聞いていたものと随分違う。
必要以上は話さない方がいい気がして、エイヴリルは曖昧に相槌を打ち無邪気に微笑んでみせた。
(辺境の地に住む好色家の老いぼれ公爵閣下、と伺っていたけれど、少なくとも老いぼれでも辺境の地でもないわ)
正直なところ、エイヴリルは噂通りであることを大いに期待していた。
さっきは華やかな王都に大興奮してしまったけれど、ずっと暮らしていくなら落ち着いた田舎町が好きだし、山も海も川も虫も動物その他不便さも大体問題はない。
好色家……外に愛人がいる父親ですっかり慣れっこだし、もしそれが『老いぼれ』ならただのラッキーでしかなかった。
(さようなら……私ののんびりした第二の人生……いえ、まだチャンスがあるのかしら)
実は、明日にでも辺境の地へ連れていかれるのかもしれない。
しかし、公爵様が控えめに見てもちょっと年上程度なことは確定してしまった。そのほかの噂が本当なら、脱走一択である。その場合、支度金すらいらないかもしれない。
「思ったよりも話が通じそうで安心した」
「それはよかったですわ」
(公爵様は私が噂ほどではなくてよかったと安心しているみたいだけれど、私は噂通りの方でもよかったわ)
いつ脱走すべきか。今、エイヴリルの頭の中はそれだけで埋め尽くされている。
だから、目の前の公爵様──ディラン・ランチェスターが告げてきた言葉に目を瞬いた。
「……これは、契約結婚だ」
「……契約結婚……?」
「ああ。君にはこの契約書に書いてある内容を履行してもらう。中身を要約すると、私と君は形だけの夫婦になる。そして、三年後には離縁する。その後は一生暮らしていけるだけの資産を譲るから、好きにするといい」
(なんて素敵なの……!)
エイヴリルは思わず立ち上がった。
「はいありがとうございます!」
「……は?」
瞳をキラキラに輝かせたエイヴリルの反応があまりにも予想外だったのだろう。美しい顔立ちに困惑の色を浮かべるディランに、エイヴリルはさらに満面の笑みを向けた。
「その契約結婚、喜んでお引き受けいたしますわ」
「……君はどうしてそんなにうれしそうなんだ。三年が経ったら、傷物としてこの家から放り出されるんだぞ?」
「あら。公爵様こそ、どうしてそのようなことをお気になさるのです? この契約書を作成なさった時点で織り込み済みでは」
おっとりと首を傾げるエイヴリルに、ディランは理解できないという表情を向けてくる。
「これは淑女にとって屈辱的な契約と理解している。顔色を変えずにこんな契約を申し入れる私のことをひどいと思わないのか」
「ええと、私がこれまでに出会った中ではトップクラスに優しいほうです」
「は?」
「いえ何でもありませんわ」
(いけない、また余計なことを)
思ったことをそのまま口にしてしまうことがあるのはエイヴリルの悪いくせだ。慌てて口を引き結び、ニッコリと微笑む。
とにかく、この契約は生きていく資金と自由のどちらも欲しいエイヴリルにとっては願ってもないものである。
そうと決まれば、目の前の美貌の公爵様の気が変わる前に早急に締結せねばなるまい。
「と、とにかく契約書を拝見いたします。声に出して読み上げてもよろしいでしょうか」
「好きにしろ」
許可をとったので、エイヴリルは早速契約書を読み上げる。
「一、二人は婚姻誓約書を提出し婚姻を結ぶが形式上の夫婦となる」
「契約結婚とはいえ、婚姻誓約書の提出はしてもらう」
「当然ですわ。問題ありません」
一つ目の項目は至極まともなものだった。しかし、問題は次からだった。
「二、妻はランチェスター公爵家の品位を保つための活動に協力する。それ以外は妻として振る舞う必要はない……?」
目を瞬いたエイヴリルに、ディランは事もなげに告げてくる。
「そのままの意味だ。公爵夫人としての役割があるとき以外は好きに過ごしていい」
「な、なるほど」
どうやら、これは本当に恵まれた契約らしい。心の中で感謝し手を組んだエイヴリルは、続きを読み上げる。
「三、部屋は別に持ち、お互いの行動に干渉しない」
「君の素行の悪さは聞いている。遊びまわるのも自由にしてもらって構わないが、この三年間だけは遊び相手の婚約者に訴えられるのはやめてもらいたい」
「素行の悪さ……?」
(私って……素行が悪かったかしら)
エイヴリルが首を傾げると、ディランは心底不思議そうな視線を送ってくる。
「……仮面舞踏会」
「! そうでした仮面舞踏会ですね! 行きます行けます行ったことありますわ」
(そうだったわ! 公爵様は私を悪女だと信じていらっしゃる。悪女・エイヴリルだと)
誤解されたままでいても特に困るようなことはないし、別に今ここで弁解しなくてもいいだろう。そう納得したエイヴリルは、残りの二項目を続けて読み上げた。
「四、結婚式は
五、三年が経ったらこの契約は満了とする。その際には妻に相応の慰謝料を支払う」
一通り内容を確認したエイヴリルは改めて目を丸くした。
(こんなのどう考えてもおかしいわ。私にとってはいいことだらけ……!)
「あの、これ……私に都合が良すぎないでしょうか」
「は? どこがだ。よく読んだか? 公爵夫人として嫁がせておきながら、何の権力も名誉も与えず、三年間も飼い殺しにする契約書だ」
「…………」
(確かにそうかもしれないけれど……)
エイヴリルは、手元の温度を感じない文字ばかりの契約書と、目の前で整った顔を
「あの、公爵様は……とてもいい人ですね」
「は? 俺が?」
ディランの顔には「君は一体何を言っているんだ」と書いてある。相当に驚いたらしく、貴公子らしい言葉遣いが崩れていた。
とにかく、この契約内容は資金を得つつ自由に生きたいエイヴリルにとって願ってもないものだ。公爵様の気が変わらないうちにとっとと締結してしまうべきだろう。
サラサラとサインを終えたエイヴリルは、契約書をディランに手渡す。
そして、一つだけ疑問を思い出した。
(そういえば、さっきエントランスのところで「素行の悪さを買って縁談の申し入れをした」というようなことを
「あの、公爵様。伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ」
「もしかして、『悪女のエイヴリル』に結婚を申し込んでくださったのは、離縁前提だからですか? 悪女の私なら、社交界での評判はこれ以上落ちようがないですものね。むしろ、元公爵夫人を名乗ることで新たな道が開ける可能性もありますし」
「……君は遠慮というものを知らないのか?」
ばつの悪そうなディランの笑みに、エイヴリルは自分の推測が当たっていることを知った。
(……ええと、つまり私って……)
(悪女じゃないとわかったら、アリンガム伯爵家に送り返されるか、ここから追い出されて一文無しになるのでは!?)
無事に契約を結んだエイヴリルには、離れの部屋が与えられることになった。
「ここは何でしょうか……?」
「エイヴリル様のお部屋です」
「わ、私の!? ここが……ここがですか!?」
温度を感じさせないメイドの返答と目の前の光景に、エイヴリルは目を瞬く。
ランチェスター公爵家のお屋敷がほぼお城だったことに衝撃を受けたエイヴリルは、自分の部屋が離れだと聞いて
これまでアリンガム伯爵家の使用人部屋で質素に暮らしてきたエイヴリルには、真っ白いお城は
(別棟なら質素だろう、と想像した私が浅はかでした……)
目の前の煌びやかすぎる建築物に、エイヴリルは遠い目をしていた。お城である母屋同然の
(このお屋敷に到着して門をくぐったときには、この建物は隣の方がお住まいのお城なのだと思っていたわ……まさか、離れだったなんて)
「あの、ここって、宮殿では?」
「いえランチェスター公爵家の歴史ある別棟以外の何物でもありません」



