【第二章】契約結婚、大歓迎です ③
ぽかんとしているエイヴリルに、メイドはぴしゃりと言い放ちすたすたと歩いていく。エイヴリルは、慌ててその後を追う。
ちなみに、エイヴリル付きの侍女として来たはずのキャロルは姿を消していた。エイヴリルのために動くのではなく、ランチェスター公爵家の使用人と関係を深めたいのだろう。きっと、母屋でさりげなく
彼女の不安もわかるエイヴリルは、それを放っておくことにした。
それよりも、問題はこの豪華すぎる住まいである。
(磨き上げられた大理石の壁! 庭仕事をした後の泥だらけの靴では歩けない床! ぶつかって割ったら支度金が消える
自室に案内されるまで、ずっときょろきょろしていたエイヴリルに、案内係のメイドはわずかに
「……こんなところ、エイヴリル・アリンガム様ならいつも出入りされているのではないですか」
「……! そ、そうだったわ! そうです、こんなの慣れっこなのです」
金銭的に余裕がないアリンガム伯爵家は質素なものだったが、夜遊びの場はたいていどこかの貴族の館と決まっている。
コリンナも怪しげな招待状を手に、夜な夜な屋敷を抜け出していた。
(いけない。私は悪女・エイヴリルになるって決めたんだったわ……!)
ディランは、三年後に家を追い出されても『傷物』にならない令嬢を探していたらしい。つまり、自分がそうでないと知られてしまったらあの契約は無効になってしまう。
どうしてもそれだけは避けたいエイヴリルは、悪女になりきると決めていた。
(アリンガム伯爵家に戻るのは絶対に嫌。追い出された後一人で生きていくには、相当な資金がいるわ。それに……私に良くしてくれたキーラたちのことも何とかしたい。そのためには、悪女として契約を完璧に履行しないといけない……!)
ついさっき固めたばかりの決意を
「旦那様は、この離れを好きに使うようにとの仰せです」
「好きに!? 全部でしょうか!? この夢のような場所を!?」
「……はい」
一体何を言っているんだ、というメイドからの冷たい視線に耐えた後、エイヴリルは話題を変えることにする。自分が知っている悪女の知識では、この話題に対応しきれない。
(私は、殿方に貢がせて一夜の遊びをくり返すコリンナのような悪女。コリンナは、きっとこの状況になったら喜んでも驚きはしない……)
「あの、もしかして、普段は前公爵様がこちらの離れでお過ごしなのでしょうか。今は狩猟シーズンだからいらっしゃらないだけで」
「いえ。大旦那様はずっと領地にいらっしゃいます。そちらに愛人の方々がお過ごしの離れを建てていらっしゃいますので」
「あ、愛人の方々が過ごす離れ」
エイヴリルの脳裏に楽園のような光景が思い浮かんだ。
なるほど、『辺境の地で暮らす好色家の老いぼれ公爵閣下』とは前公爵のことのようだ。メイドの口振りからは、その離れもまたこのような宮殿だということが
(よかった。公爵様……ディラン様はやはりまともなお方のようね)
改めてホッとすると、ずっと無表情を貫いてきたメイドがわずかに感情を
「旦那様からはエイヴリル様の素行に口出しするなと仰せつかっております。しかし、私たち使用人は旦那様の目に入るところでそのような遊びをしてほしくありません」
「……ええっと、あの?」
「ランチェスター公爵邸にほかの殿方を招き入れることはできる限りお控えください。せめて、旦那様のご不在中にお願いします」
「…………」
その意味をエイヴリルが理解して答える前に、メイドはバタンと音を立てて扉を閉め、出ていってしまった。
その扉を見つめながら、エイヴリルは
「私に、コリンナと遜色ない悪女としての振る舞いができるのかしら」
コリンナはどこからどう見ても素晴らしい悪女だった。夜遊びの場ではエイヴリルの名前を使っていたところまで抜け目なく完璧である。
(少し不安はあるけれど)
「でも、契約したのだもの。私は完璧な悪女として振る舞ってみせるわ……!」
──エイヴリルが悪女になりきる場は、すぐ翌日にやってくることになる。
◆
「どう考えてもおかしいだろう」
エイヴリルが到着した日の夜。
書斎で執務をこなすディラン・ランチェスターはどうしても
(アリンガム伯爵家の令嬢は悪女だと聞いていた。しかし、決してそんなふうには見えなかった)
「今日の到着には同席できませんでしたが……そんなにおかしなことがあったのですか」
ディランの傍らで目を丸くしている赤みがかった茶髪の青年は側近のクリス・ブロンテである。
まだ二十歳と若いが、ディランからの信頼が厚く、ランチェスター公爵家では片腕として知られた存在だ。
クリスを前にディランは考え込む。
「ああ。彼女は噂と随分違っていた」
「ディラン様もお噂とは相当に違いますが」
「あれは前公爵に関わるものをわざとそのまま否定せず流している。その方が、縁談に煩わされなくていい」
「それはその通りですね。ディラン様は離縁後も本当のご結婚はされず、親戚筋から養子をとる予定ですしね」
「まあ、その話は今はいい」
クリスから視線を外して、ディランは続ける。
「それよりも問題はエイヴリル嬢だ。相当な悪女だという噂だったが、言動は極めて常識的で、身のこなしもよく教育を受けた貴族令嬢のそれだった」
「随分と喜ばしいことで。でしたら、問題を起こさずにお過ごしいただけるのではないですか」
「それはそうだが……この結婚を受け入れたのには何か理由がある気がするな」
エイヴリルに結婚の申し入れをしたのはわずか数日前のこと。にもかかわらず、あっさりとありえないスピードで嫁いできたことにも、ランチェスター公爵家の面々は困惑気味だった。
急に声を落としたディランに、クリスは手元の資料をめくる。
「事前にお調べしたエイヴリル・アリンガム嬢は……ええと、ピンクブロンドに碧い瞳で、仮面舞踏会をひっかきまわしては男をとっかえひっかえ……失礼、多重交際と婚前交渉をくり返し、周囲の人間関係をめちゃくちゃにし、表面上は天使のようですが実際は使用人にもつらく当たる悪女、と。今回は運悪く遊び相手の婚約者に関係が知られ、多額の借金を作って追い出されたようです。終始一貫してまるで悪女のお手本のようですね」
「……まさか彼女がもう一人いるかのような違いっぷりだな。彼女は双子か」
「いえ、妹がいると聞いていますが双子では」
「……」
「……」
ディランにとっては軽い冗談のようなものだったが、決してありえなくはない予想に二人の間に微妙な沈黙が流れた。
それほどに、ディランにとってエイヴリルの振る舞いは不審すぎたのだ。
「その事前調査通りであれば、あんなに屈辱的な契約を一方的に申し入れられたら憤慨するものと思っていたが。だからこそ、秘密を守らせるため離れを与えてこれ以上ない厚遇にした」
「そうだったのですか。……ただのディラン様の優しさだと思っておりました。あなたは心底お優しい方ですので。嫁いできた女性を邪険に扱うなど向かないのでは」
「黙れ」
ディランは決まりが悪そうにクリスを
「クリス。念のため、明日からそれとなくエイヴリル嬢の行動を注視してもらえるか。気になることがあれば逐一報告しろ」
「承知いたしました。困ったことがあればお助けいたしますね」
「……そこまでは言っていない」
空気を読みすぎる



