【第三章】悪女、はじめました ③
「え?」
「そのネックレスは、この店で一番高価なものです。石は小さいですが、宝石や鉱物の図鑑にも載らないほど希少価値の高い一点もので。前の持ち主は大富豪の方で、長く保管されていたため市場に出回るのは極めて珍しいのです」
「……!?」
(そんなことって、ある……!?)
悲鳴にならなかっただけ褒めてほしい。目を白黒させているエイヴリルを、満面の笑みのクリスが見下ろしてくる。
「エイヴリル様、何か問題でも? よい贈り物ができて、ディラン様もお喜びになるでしょう」
「いえ、あの。……そうね。私にぴったりのジュエリーだわ」
(って全然良くないわ……! 三年後に
蒼くなっているエイヴリルを無視して、クリスは店員に指示を出す。
「お姫様のお買い物が終わったようですので、ついでに向こうの青いドレスも一緒にお願いします。きっと彼女に似合いますから」
「えっ? それなら、あの露出の多い赤いドレスの方が好みですわ……!」
何とか悪女の設定を続けたいエイヴリルに、クリスは聞いてきた。
「ご無理はなさらない方が賢明です。あの赤いドレスを本当に着られますか?」
「…………」
無理に違いない。というかもし赤いドレスにしたら、お茶会の前に間違いなくコリンナに送られてしまうだろう。
「えっと……着る前に消えてなくなる気がいたします」
「? よくわからないですが、青いドレスにしておきましょうね」
(いけない、また余計なことを)
たまに本音が
そして、口を押さえながらつい数分前の自分の判断を呪う。
(一番高額なジュエリーを購入することになるのなら、お祖母様のネックレスを選べばよかった……!)
本当に悪女ならばここでジュエリーをもう一つねだるべきだったが、あいにくエイヴリルにはそんなことを思いつけるはずがない。
とにかく、こうしてエイヴリルの悪女としてのお買い物は散々な結果に終わったのだった。
買い物を終え、クリスにお礼を言い、ネックレスに後ろ髪を引かれつつ部屋に戻ったエイヴリルは疲れ果てていた。
(なんだか疲れてしまったわ。でも、お祖母様のネックレスに会えただけでもよしとしましょう)
お風呂にでも入りたいなとバスルームを
(まぁ、なんて素敵なの! 公爵家のメイドの方は本当に気がきくのね……!)
屋敷に到着すると同時にまたしてもキャロルは姿を消してしまった。
自分が仕える相手はエイヴリルではない、と行動で示しているようでいっそ
それはともかくとして、バスタブに手を入れてみる。
しっかり冷たかった。
「ボイラーが故障しているのかしら。ううん、きっと私が帰るのが遅いから、お湯が冷めてしまったのね」
アリンガム伯爵家にいた頃、エイヴリルの入浴場所は使用人専用のバスルームだった。
けれど、コリンナの入浴の準備はこれまでに何度となくこなしてきた。
だから、冷めてしまったバスタブのお湯の温度を上げることなど造作もない。
「厨房に行って熱いお湯をいただいてきましょう。何度か往復すれば、すぐに適温になるわ」
早速、エイヴリルが厨房で用件を伝えると、料理人はギョッとしながらお湯を沸かしてくれた。それを、使用人たちにジロジロと見られながら自分の部屋に運ぶ。
(やっぱり、高級なお店でのショッピングよりもこうして動いている方が落ち着くわ)
何度目か、自室に続く階段を上ろうとしたところで。
エイヴリルは、階段の上で呆気にとられているメイド──グレイス、の姿を見つけた。
「エ、エイヴリル様。一体、何を……」
「ええ。お風呂に入ろうと思って。バスタブのお湯が冷めてしまっていたから、熱いお湯を運んでいるところなの」
「バスタブに水が張ってあった!? それは、大変申し訳」
なぜか謝ってくるグレイスに、エイヴリルはにこりと微笑みかける。
「いいえ。私のお買い物に時間がかかって帰るのが遅くなってしまったのが悪いの。気にしないで」
「……決してそのような理由ではないと思います。今日のエイヴリル様のお部屋の担当は別の者でして。注意しておきます。この続きは私が」
「あら、大丈夫よ? このお湯を入れたら、そろそろちょうどいい温度になると思うの!」
エイヴリルは上機嫌で、湯気を上げるあつあつの熱湯が入ったバケツを掲げた。
ついこの間までアリンガム伯爵家の使用人扱いだったエイヴリルは、自分の行動が公爵夫人としてはおかしなことになかなか気づけない。
その証拠に、目の前のグレイスは初日の仏頂面が噓のように動揺している様子だった。グレイスは少し考え込んだ後、遠慮がちに告げてくる。
「……エイヴリル様は……お噂とは随分違いますね」
「!」
(……いけない。コリンナは、こんなふうに自分でお風呂の支度をすることはなかったわ!)
今さら気がついても後の祭りである。
少し考えればわかるものを、しみついた長年の使用人としての振る舞いは正常な判断をさせてくれなかったようだ。
(ど、どうしましょう……)
そう思ったところで、手元が急に軽くなった。
「一体、何をしている」
「だ、旦那様……!」
顔を青くして叫んだグレイスにつられて振り向くと、そこにはなぜかディランがいた。
たった今までエイヴリルが手にしていたバケツを持ってくれている。
(ディラン様はバケツを持っていても絵になる人ですね)
エイヴリルが感心すると、彼は不機嫌そうに片眉を上げた。
「……私の妻となる女性は、どうして熱湯の入ったバケツを抱えているんだ?」
「あら、あのこれそんなに重くは、」
「そういう問題じゃない。説明しろ、グレイス・フィッシャー」
エイヴリルの言葉を遮ったディランは
フルネームを呼ばれたグレイスは真っ青になって謝罪を口にした。
「も、申し訳ございません。私どもが至らず」
「……エイヴリル嬢。今朝の身支度は誰がしたんだ? 君がここに連れてきた侍女はどうした」
(ええと)
急に目を
きっと、エイヴリルの身支度がいまいち整っていないことを言っているのだろう。
けれどこれまでの人生でエイヴリルは身支度を誰かに手伝ってもらった記憶はないし、むしろ継母やコリンナがドレスを着るのを手伝う側だった。
記念すべき公爵家での悪女として迎える初めての朝──つまり今朝、エイヴリルのことを起こしに来た者は誰もいなかった。
ということで外出のために自分で着替え、適当に髪を
行き先は街のドレスショップと聞いていたので、特に丁寧に準備して悪女っぽく口紅も引いた。大満足の仕上がりだった。
(恐らく……公爵様はメイドたちが私の世話を怠っているのでは、と心配してくださっているのですよね)
ちらり、とディランの表情を窺う。
熱湯が入ったバケツを持った彼は、何となく怒っている気がする。きっと、雇用主として使用人が職務を怠けているのではと疑っているのだろう。
自分の身支度がいまいちだったせいで誰かが怒られるなんて、エイヴリル自身もいたたまれない。
(こんなとき、コリンナならどうするかしら)
同じシチュエーションにコリンナがいることはまずありえない。けれど。
(私の悪女としてのお手本・コリンナなら、きっと誰かのせいにして逃げるわ)
あっさりと思い至ったエイヴリルは、ディランの涼しげな瞳を見上げた。
「……公爵様。そういえば私、まだ支度金をいただいていません」
「は?」
「支度金です。嫁ぐだけでいただけると聞いていたのに、一体どうなっているのでしょうか」
一瞬でエイヴリルが考えたのは、話を逸らす手段だった。



