【第三章】悪女、はじめました ④
誰かのせいにする──ディランもしくはグレイス、その他ドレスショップに付き添ってくれたクリスにお湯を沸かしてくれた料理人の顔まで思い浮かんだのだが、着せる
けれど、正解だったらしい。ディランはグレイスへの追及を諦めてバケツを置き、胸ポケットから手帳とペンを取り出した。
「確かにその通りだ。すぐに小切手の手配をする」
「あっ! そ、それでしたらいつでも構わないのです。きちんといただけるとわかっていれば……!」
「……いやいい。結婚に関わる支度はこちらですべて出すつもりだからと、後手に回ってしまった。すまない」
さっきまで、グレイスに向けていたぴりりとした空気が一転して穏やかなものになった。
月の光のような銀色の髪が、ディランの顔に陰をつくる。空色の瞳は真剣そうに手元のペン先を見つめている。それがとても綺麗だった。
(……なんだか、公爵様って)
「やっぱり優しい人なのですね……」
「は?」
「いえ何でもありません」
さっきまで申し訳なさそうだったディランの表情が一瞬で怪訝なものに戻ってしまった。
エイヴリルは、慌てて自分の希望を伝えることにする。支度金の受け取りに関しては考えがあるのだ。
「それよりも、支度金の支払いは、三年後に私がこの家を出ていくときに慰謝料と合わせてお支払いいただくことはできますか?」
「ああ、もちろんだが……それでは支度金の意味が」
「どうかお気になさらず。私の実家はお金を持っていると使ってしまう
この場合、使ってしまうのは父親に継母とコリンナである。
加えて、エイヴリルについてきた侍女のキャロルはコリンナの味方だ。
それをふまえると、多額の支度金はエイヴリルの手元にあるだけで危険だった。
「……わかった。では、必要があればその都度渡すことにしよう。もちろん、君に関わる費用はすべてランチェスター公爵家が負担する。使う機会はあまりないだろうが」
「あ、では早速お願いしてもいいでしょうか?」
「ああ、すぐに」
(よかったわ)
これから話すプランは、身代わりで嫁ぐことに決まった瞬間から考えていたことだった。うまくいきそうで、エイヴリルはほっとする。
「では、アカデミーに依頼してアリンガム伯爵家に補佐を派遣したいのです。ぜひそれに関わる費用を。加えて、可能であれば公爵様のお名前をお借りしたいのですがよろしいでしょうか」
「……もちろんだが、なぜそんなことを?」
「事情により、アリンガム伯爵家と領地はしばらく混乱するでしょう。アカデミーから優秀な方を雇えればいいのですが、恐らく私の実家は手間も費用も惜しむと思います。残念なことですが」
「実家に、支度金を渡すのではなく現物を渡したいということだな。どうしてそこまで」
(しまったわ)
ディランがあまりにもスムーズに話を聞いてくれるので、安心しきったエイヴリルは話しすぎてしまったようだ。
「えっと……思う存分遊びたいのです。誰かをお屋敷に招くのも、夜遊びに出かけるのも、心配ごとが残っていては難しいですから」
慌ててエイヴリルはコリンナの日常を羅列してみる。アカデミーから優秀な人間を雇いたいという希望とは大分矛盾している気はするが、ぜひ気がつかずに放っておいてほしい。
エイヴリルの話を一通り聞き終えたディランは、少し考え込んだ後で頷いた。
「君の希望はわかった。すべてすぐに手配しよう。アカデミーなら
「……公爵様が手配してくださるのですか!?」
「ああ。私は、君の夫となる人間だ」
ディランがあまりにもさらりと言うので、エイヴリルは目を瞬いた。
(私の『夫』……。私に契約結婚だと告げてきたときの公爵様は、こんなに柔らかな表情だったかしら。お優しい方なのはわかっていたけれど、なんだか)
何が何だかわからない中、階段の踊り場で固まったままのグレイスがエイヴリルの視界に入る。
(そうだわ)
さっき、少しだけ感じたことを思い出してエイヴリルは微笑む。
「……公爵様は、使用人の名前をフルネームで覚えておいでなのですね。さっき、彼女の名前を呼んでいらっしゃいました」
「それがどうかしたか」
「いいえ。とても素晴らしいと思います。ぜひ、私もそうしたいと思います」
「……君は一体何なんだ……」
心なしか、ディランは呆気にとられているようにも見える。エイヴリルの方も、何と答えたらいいのかわからない。
(一体何、って……)
「ええと……実家では無能だと呼ばれておりましたわ。悪女でもありますので、無能な悪女です」
「……『無能な悪女』、だと?」
エイヴリルがにっこりと笑ってみせると、
◆
一方、その頃。
アリンガム伯爵家では、エイヴリルからの送金がないことにコリンナがひどく立腹していた。
「ねえ。一体どうなっているの? エイヴリルは公爵家に到着したはずなのに……どうしてまだ支度金が振り込まれないのよ!」
エイヴリルが嫁いだことで受け取れるはずの支度金のほとんどは、アリンガム伯爵家の借金返済に充てられることになっていた。
悪女であるコリンナの火遊びがバレたことで至急必要になった資金だったが、実際に請求された慰謝料はごくわずかなもの。
取り急ぎ返済が必要になってしまった借金の多くは以前からのものであり、かつコリンナの火遊びの相手の婚約者は淑やかで
つまり、社交界から居場所を奪うための手段だということは明白だった。
自分の立場を理解していないコリンナは自慢のピンクブロンドをふわりと跳ねさせる。
「お母様。エイヴリルからの振り込みはまだなのかしら。だって、もう三日も経つのよ? 『好色家の老いぼれ公爵様』は支度金を渡すのをお忘れなのではないかしら」
「そうよね、コリンナ。エイヴリルはぼーっとした足りない子だし、催促なんてできないでしょう。こんなことになるなら、支度金が振り込まれてから送り出すべきだったわね」
言いたい放題のコリンナと母親に、エイヴリルの父でもあるアリンガム伯爵は神妙そうに手紙を差し出してきた。
「……コリンナ。実は、このような手紙が来ている」
「私に? どなたからかしら?」
「リンドバーグ伯爵家のアレクサンドラ嬢……お前の遊び相手の婚約者からだ。内容は、コリンナ・アリンガムを侍女として雇い入れてもいい、というものだ」
「はっ?」
父親の言葉に、コリンナは顔を真っ赤にして憤慨する。
「何それ! あの堅物令嬢が私にそんなこと言ってくるなんて、ふざけないでほしいわ! これまでにない、絶対に許せない侮辱よ! お父様、リンドバーグ伯爵家に抗議をしてくださいな!」
「お前はエイヴリルの名を
「そんなことどうでもいいわ。私を侍女に、なんて言い出してくること自体が許せないのよ!」
しかし、コリンナを
「エイヴリルなら大人しく支度金を送金するとは思うが……万一、支度金が渡されないなどということになったら、我が家は窮地に陥る。一応、ランチェスター公爵家には支度金の催促の連絡を入れておく」
「ええ、そうしてくださる? 私に働けなんて……しかも、我が家をこんな目に遭わせた女の侍女なんて冗談じゃないわ」
「しかし、コリンナ。リンドバーグ伯爵家は、お前がアレクサンドラ嬢の侍女として仕えるなら借金の返済をこれまで通り分割にしてくれると言っているのだ」
「そんなの知らないわ。だって、うちの借金は私に関係ないもの」
家の懐事情を無視した自分の贅沢を棚に上げ、コリンナは偉そうに顎をしゃくり上げる。それを見た父親はため息をついた。
「今度の件で、アレクサンドラ嬢がお前の遊び相手と婚約を解消することになったのは知っているな。……噂では、アレクサンドラ嬢は王太子殿下のもとに上がることになるかもしれないそうだ」
「……はっ? それって、あの堅物令嬢と王太子殿下が婚約するってこと? 噓でしょう?」
コリンナは口をあんぐりと開けた。



