【第三章】悪女、はじめました ⑤

 この国の王太子殿下は二十四歳。同世代の貴族令息の半分以上が結婚済みにもかかわらず、まだ誰とも婚約を交わしていない。

 眉目秀麗な外見と穏やかな物腰は社交界でも人気が高く、地位そのままにたかの花だった。

 むしろ、コリンナとしては仮面舞踏会で王太子殿下に出会いたいぐらいだった。もちろん、そんなことはありえないけれど。


「もう一つ、お前が怒りそうな知らせがある」

「何かしら? これ以上機嫌を悪くする知らせなんて、思い浮かばないのだけれど!」

「隠しておいても近いうちに知れることだろうから今教えておくが……ランチェスター公爵家は代替わりをし、公爵閣下は老いぼれではないのだそうだ」

「……え?」


 驚きでぽかんと目と口を開けたコリンナに、父親は遠慮がちに告げてくる。


「ランチェスター公爵家は社交界にあまり姿を見せないから知らずにいた。しかし、昨日噂で聞いたところによると、ディラン・ランチェスター公爵は二十二歳の青年なのだそうだ。しかも、歳が近い王太子殿下とも親交が深く、お近づきになるチャンスがあると」


 話の向きを理解したコリンナは、ふんと鼻を鳴らした。


「あら、お父様。それぐらいで私が怒るわけありませんわ。嫁ぎ先がお金持ちの公爵家でも、あのエイヴリルが大切にされるはずがないし、王太子殿下とも懇意になるのは難しいと思うんです。だって……エイヴリルは、ねえ? お母様?」

「え、ええ。そうよ。エイヴリルは気持ちが悪い子なのよ。家族からでさえ無能扱いのあの子が、よそで大切にされるはずがないわ」

「…………」


 妻と娘の会話を聞きながら、三人の中で唯一、父親だけが浮かない顔をしていた。



 エイヴリルが街へ買い物に行き、その後お湯入りのバケツを取り上げられた日の夜。

 ディランは、書斎でクリスからの報告を聞いていた。


「エイヴリル様は、悪女ではありませんね、あれは」

「やはりクリスもそう思うか」

「はい。というか、誰も悪女だとは思っていないのでは」

「……」

「……」


 二人の間には微妙な空気が流れる。

 ディラン、クリスともに、どう考えてもエイヴリルの様子がおかしいのはわかっていた。

 気を取り直して、ディランはクリスに尋ねる。


「それで、エイヴリル嬢の街での様子はどうだった」

「はい。悪女……というよりは痴女のような露出の激しいドレスに真っ赤になり、自分で持ってこさせた宝石に値札がないのを見て真っ青になり、その後適当に選んだネックレスが高価すぎることを知り真っ青を通り越して真っ白になっていました」

「…………」

「ちなみに、高価なネックレスについては、当てずっぽうで選んだにしてはすごい確率です。並んでいたのは、どれも希少価値の高い宝石を使ったものばかりでしたから。その中であれを引き当てるとは、ものすごい強運の持ち主かと」

「……なんだそれは。聞けば聞くほどに意味不明だ」


 呆れた様子のディランを前に、クリスは続ける。


「エイヴリル様ご本人は悪女のつもりのようですが、素が天然……いや失礼、かなり礼儀正しく穏やかな方のようで。街から帰ったら、同行したことへのお礼をな笑顔で丁寧に言われました。時折悪女を意識して会話がおかしくなりますが、どうやらそちらが相当無理をしているようですね」

「…………」


 クリスの報告は、ディランにも心当たりしかない。初日の会話や立ち居振る舞いへの違和感に始まり、今日はメイドに気遣いを見せていた。

 基本的に、ランチェスター公爵家に勤める使用人は皆勤勉で忠誠心が強い。

 だからこそ、『悪女』として知られるエイヴリルはこの家に好ましくない存在として蔑視の対象となる可能性があった。

 契約上の妻とはいえ、ディランも一応三年間はエイヴリルを守り切るつもりでいる。だからこそ離れの様子を見に行ったのだが。


(彼女は……斜め上というか様子がおかしすぎないか……? 一体何を考えている。いや、何も考えていないのか)


 少し考え込んだ後で、ディランは口を開く。


「……私が見たのは、入浴用の熱湯をバケツで運んでいるところだったな」

「何ですかそれ」

「こっちが聞きたいところだ。てっきり使用人から冷遇されているのかと思えば、そのメイドをかばうように話題を逸らすし……。しかし、その後の言動は極めてまともだった。支度金を早くよこせと言うから話を聞いてみると、実家に送金するのではなく、必要なものを選んで手配したいらしい」

「強欲さをアピールしたつもりが逆効果ですね」


 感情が読めない笑顔のクリスに、ディランはため息をつく。


「ああ。今回、アリンガム伯爵家の弱みに付け込んで婚約を申し入れたが……ああ見えて、エイヴリル嬢も実家の財政状況を理解しているのかもしれないな。……どうしてそうなっているのかも」

「もしそうだとしたら、エイヴリル様は公爵夫人として本当に好ましいお方では」


 暗に、クリスの進言は「別に契約結婚でなくてもいいのでは」というものだったが、ディランは表情を変えない。


「彼女は、俺がこれまでに見てきた令嬢と違いすぎる」

「まぁ確かに」

「しかも、彼女はこの契約結婚をひどく喜んでいた。ありえないほどにな」

「ご本人は悪女になりたいようですが……どちらかと言うと、無垢なお姫様ですね」

「ああ、同感だ」


 ディランとクリスの意見は一致する。

 そして少しの間の後、心底不思議な顔で二人同時に首をひねった。


「しかし……どうして、彼女は悪女のふりをしているんだ?」


 その答えはどこからも返ってこない。

 代わりに、クリスは今日の出来事で気になったエピソードを一つ付け加えた。


「そういえば、今日、エイヴリル様はとても気になったジュエリーがあったご様子でした。本当はドレスにもジュエリーにも全く興味がないのは明らかなのに、そのネックレスだけは熱心にご覧になっていて」

「それなら、どうしてそれを買わなかったんだ?」

「神のみぞ知ります」

「だろうな」


 ディランはふっと笑い、クリスは澄ました顔で書斎を後にしたのだった。



 数日後。エイヴリルはディランと同じ馬車に乗り、お茶会が行われる館へと向かっていた。

 物心がついてからというもの、エイヴリルはこういう場に出たことはない。コリンナの家庭教師がこっそり教えてくれたおかげでマナーは一通り覚えているものの、不安しかなかった。


(──これは、契約書にあった〝二、妻はランチェスター公爵家の品位を保つための活動に協力する〟に基づくもの。……悪女なのだからきっと完璧ではない方がいいから都合がいいわ。人に迷惑をかけない程度に、ちょっとしつけな振る舞いをすればいいだけ……!)


 そうは思うものの、膝の上に置いた手がぷるぷると震えている。

 基本的におっとりとして鈍いエイヴリルがここまで緊張しているのには理由があった。それは。


「ディ……ディラン様。今日のお茶会には王太子殿下がいらっしゃるのですね……」

「ああ。クリスに聞いたのか」

「はい。……まぁ、全然問題ないのですけれど」


 強がって微笑んでみせるが、頰が引き攣っているのが自分でもわかる。

 顔の筋肉をほぐそうと頰をもみもみしていると、隣に座ったディランが目を丸くした後で吹き出した。


「……くっ。その仕草は、噂に聞くエイヴリル・アリンガムらしくないな」

「!? そうでした……ではない、普段は夜の社交の場にしかまいりませんので、昼間にふさわしい爽やかな表情をつくっているのですわ。どうかお気になさらず」


 エイヴリルのお手本、コリンナは夜遊びに明け暮れていて普通の社交はあまり好きでなかった。きっと、彼女も同じ立場になったらそこそこ緊張していただろう。

 エイヴリルが硬くなっているのを感じ取ったらしいディランは、笑ってみせた。


「君のことは婚約者として紹介するが、あまり慣れていないのなら無理することはない。私の隣を離れず、微笑んでいるだけで大丈夫だ」

「……よ、夜遊びと火遊びが忙しくて、普通の社交は久しぶりというだけですわ。慣れていないわけでは、」

「君の言う〝夜遊びと火遊び〟の意味を詳しく聞いてみたいものだな。一般的に広く認知されているものとは相当かけ離れていそうだ」

「!?」


 エイヴリルに取り繕うのはもう無理だ。これ以上聞かないでほしい。

刊行シリーズ

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