【第三章】悪女、はじめました ⑥
しかし、エイヴリルの隣のディランはとても楽しそうである。余裕たっぷりに笑いながらも纏った空気が柔らかく、初対面のときの冷静な表情が噓のようだった。
さらに突っ込んで聞かれる前に、早急に話題を変えなければいけない。こほんと咳払いをしたエイヴリルは、できるだけ自然に切り出した。
「……ディラン様。招待客のリストがあればお見せいただいてもよろしいでしょうか」
「ああ。しかし何に使う?」
「私は無能な悪女ですので、むやみやたらに絡んではいけない方を把握したいと思います。次期公爵夫人としてそれなりに振る舞う契約ですから」
「…………」
意外なことに、ディランはすぐにリストを渡してくれた。それを見つめながらエイヴリルは考える。
(素顔をさらすことのない仮面舞踏会だったとはいえ、コリンナの素性を知っている人がいるかもしれないわ。今日の招待客を把握しておくに越したことはないはず)
コリンナは夜の社交の方が得意だったが、稀に両親について普通の社交の場には参加していた。
アリンガム伯爵家の書斎を管理していたエイヴリルは、その招待客のリストを覚えている。
加えて、エイヴリルとコリンナは異母姉妹にしては不思議なほどに外見が似ているのだ。しかも、ピンクブロンドと碧い瞳はそっくり同じ。仮面で顔の大部分を隠してしまえばどちらなのかわからない。
(よかったわ。コリンナとお茶会や夜会で顔を合わせたことがある方はいらっしゃらなさそう)
ほっとして息を吐くと。
「無能な悪女か。君が言うと随分かわいい言葉に聞こえるな」
「!?」
突然、ディランが柄にもない言葉を告げてくるので、エイヴリルは目を瞬いた。
(ディラン様って、こういうことを仰る方だったかしら!?)
「ええと……お世辞をありがとうございます……?」
「いいや。心の底からそう思ったから、口にしただけだ」
「……!」
これまでの人生で、あまり褒められることのなかったエイヴリルは悪女のふりをするのをすっかり忘れてしまう。
ぽかんとしたエイヴリルと、気だるげに椅子に腰かけながらこちらを見つめているディランの視線がぶつかった。その瞬間、ディランはまたふっと微笑む。
「今日のドレスはよく似合っているな。まるで、この馬車の中に
「ええと、ありがとうございます……?」
これは貴族的な褒め言葉だと察しエイヴリルも表面的な笑顔で応じたものの、いかんせん人から褒められることに慣れていない。
(私は悪女でいないといけないのに、こんなことで舞い上がってしまいそうです)
エイヴリルはぱちぱちと目を瞬いた後、膝の上の手をぎゅっと握る。こうすれば、少しは自分を保っていられる気がした。
ちなみに、エイヴリルが身につけているドレスはこの前街で購入したものだ。
既製品ではあるものの、しっとりした上質な生地に淡いブルーの上品な色合い。シンプルながらもデコルテ周りにささやかなフリルのアクセントを効かせたデザイン。
そのどれもが、エイヴリルの可憐さを引き立てるものだった。支度を手伝ったグレイスも褒めてくれたが、悪女である女主人への建て前的な褒め言葉だとエイヴリルは理解している。
けれど、ディランの振る舞いはそれだけでは終わらなかった。
「合わせたネックレスもいい。ドレスと一緒に選んだものだな?」
「!」
そうだった。今日、エイヴリルの胸元に光るのは、あのショップで最も高額なジュエリーである。
(一体これはおいくらだったのでしょうか……!)
これはディランが贈ってくれたもので、一度はお礼も伝えている。そのときもびくびくしたけれど、幸い金額に触れられることはなかった。
今この話題になるということは、あのショップからディランのところに請求が行ったに違いない。
そんなことを考えつつ慰謝料減額の危機にエイヴリルが震えていると、ディランが意外な問いかけをしてくる。
「君は、そのネックレスより欲しいものがあったのではないか?」
「そ、そのようなことは。み、身につけるジュエリーの価値は女性の価値に等しいものですから。私にぴったりだと思って選びましたわ」
エイヴリルは嚙みつつも悪女として答えた。
けれど、ディランは気分を害する様子がない。少し間を置いて、優しく柔らかく告げてくる。
「……変なことは考えずに好きなものを買えばいい。そういう契約だ」
前を見つめたまま話すディランは、悪女を演じなければいけないことを忘れてしまうほどに穏やかな声色だ。
つい、エイヴリルもうっかりあの店で見つけた祖母の形見のネックレスを思い出してしまう。
(お祖母様のあのネックレスは、もうどなたかが購入してしまったのでしょうか……)
クリスとキャロルを引き連れてショッピングに出たあの日から、エイヴリルは祖母の形見のネックレスを何度も思い出していた。
ランチェスター公爵家から渡される予定の支度金を使えば購入することは容易だろう。
けれど、支払いは三年後に、もしくはその都度受け取りたいと願い出て承諾されてしまった。手持ちの資金がいくらかあるとはいえ、あのネックレスを買うには到底足りない。
(こういうのは巡り合わせだもの。あのお店で出会えただけでもありがたいと思わなきゃ。……お祖母様……)
祖母がアリンガム伯爵家を出ていったのはエイヴリルが六歳になる前だった。そして一年も経たないうちにこの世を去ってしまった。
自分と同じ碧い瞳をした優しい祖母の顔が思い浮かんで、わずかに記憶に残る幼い頃の甘い想い出に包まれる。
──肩を落としてため息をついたエイヴリルを、ディランは興味深く見つめていた。
馬車は目的地に到着し、ディランのエスコートで馬車を降りたエイヴリルは目を見開く。
白亜の館に花々が咲き乱れる庭、整然と並んだ豪奢な馬車。
ランチェスター公爵家には及ばないにしろ、エイヴリルにとっては華やかすぎて眩しい場所だった。
「ここにも宮殿があったのですね……!」
そこまで口にしてしまったところで慌てて口を
エイヴリルは悪女なのだ。
お手本であるコリンナは、こんなところに出入りし慣れているに違いない。けれど、ハッとするのが数秒遅かったようである。
(笑われている……ような……)
目を泳がせるエイヴリルの隣と背後でそれぞれ笑いを堪えている気配がする。これはよくない。
ディランとクリスからの視線を気づかないふりで押し切ることにしたエイヴリルは、ディランのエスコートを受けて澄ました表情をし、敷地に足を踏み入れた。
今日のお茶会はガーデンパーティーらしい。
庭園の一角、花や木がなく開けた場所に真っ白いテーブルとチェアが何セットも置いてあり、案内されたテーブルで社交を楽しむスタイルのようだ。
(……待って)
その先に待っていた光景に、エイヴリルは固まった。
ひときわ注目を浴びる、背が高くて煌びやかな黒髪の男性。それは、紛れもなくこの国の王太子、ローレンス・ギーソンである。
整いすぎたルックスとその切れ者っぷりから、彼と縁を持ちたい令嬢が後を絶たないという。
ローレンスの噂はもちろんエイヴリルも知っている。別に会いたくはなかったけれど、来るのはクリスに聞いて知っていたし特に問題はない。
問題は、ローレンスの連れである。
彼の隣にいるのは。
「──王太子殿下のお隣にいらっしゃる方って。アレクサンドラ・リンドバーグ様では」
(コリンナが仮面舞踏会で一夜を過ごした殿方の元婚約者の方……! さっき見たリストには名前がなかったのに……!)
ローレンスの隣にいるのは、コリンナに仮面舞踏会で婚約者を奪われた令嬢だった。
しかも、コリンナは彼女に『エイヴリル・アリンガム』だと名乗ったらしい。示談の場では仮面をつけていなかっただろう。けれど、エイヴリルとコリンナはよく似ている。
一度会っただけなら、恋敵が空気を読まずにお茶会へノコノコとやってきたようにしか思えないのではないか。
(これはピンチですね)
つい、ディランの腕を摑む手に力が入ってしまう。そんなエイヴリルの戸惑いをディランも察したらしい。



