【第三章】悪女、はじめました ⑦
「……すまない。これは聞いていなかった。リンドバーグ伯爵家のアレクサンドラ嬢が王太子殿下の婚約者候補として名前が挙がっていることは知っていたが、まさか今日ここに来るとは」
「あの、これはもしかしなくても修羅場になるような気がいたします……」
「だろうな。……普通なら」
エイヴリルを悪女として迎え入れたディランは、エイヴリルとアレクサンドラを引き合わせてはまずいことを理解してくれているようだ。
ディランの口振りが気になったものの、エイヴリルの選択肢は一つしかない。
(契約だもの。悪女としてなんとか乗り越えないと……! それに大丈夫。王太子殿下の婚約者なら、私が言葉を交わす機会はないはずだわ)
覚悟を決めたエイヴリルは背筋を伸ばし、ディランに告げる。
「まいりましょう。これくらい、全く問題ありません。修羅場には慣れていますわ」
ちなみに、修羅場に関しては実際には慣れていないどころか見たことも聞いたこともない。馬車の中でのディランの言葉を借りれば、意味自体が違っている可能性すらある。
けれど、エイヴリルとしてはとにかく完璧な悪女っぽく言えただけで満足だった。
ディランは少し驚いたように止まった後、ふっと笑う。
「そういえば伝えていなかったが、王太子殿下──ローレンス・ギーソンは私の親しい友人だ」
「……え?」
「今日は、彼に君を紹介しに来たようなものだ」
「!?!?」
そんなの聞いていない。目を泳がせたエイヴリルが背後のクリスに視線で助けを求めると、クリスはつんとそっぽを向いてしまった。
どうやら、王太子・ローレンスが来ることは知っていて教えてくれたけれど、ディランの親友だということはあえて教えてくれなかったらしい。
一緒にお買い物に行って仲良くなれたはずなのに、ひどい裏切りである。
焦りを隠せないエイヴリルだったが、ディランは目的の人物のもとへと向かって歩き始める。その腕を摑んでいるので、ついていかざるを得ない。
庭の真ん中へ近づくにつれ、自分たちに視線が注がれているのがわかる。ざわめきを増していく周囲に困惑しながら、エイヴリルは真っ青になった。
(──ええと、これはとってもまずいのではないでしょうか!?)
アレクサンドラが『エイヴリルのふりをしたコリンナ』の顔を覚えていても覚えていなくても、どちらでも問題がありすぎる。
けれどなすすべもなく、エイヴリルは、王太子であるローレンスとその婚約者でありコリンナの恋敵だったアレクサンドラの前に立っていた。
目の前で、王太子殿下とアレクサンドラがこちらを見つめている。
ローレンスの、黒曜石のように深い色の髪とミステリアスなタンザナイトの瞳はため息が出るほどに美しい。
いつかコリンナが、父親に王太子へ縁談を申し入れてほしいとだだをこねていたことを思い出す。
(コリンナがここにいたら喜びそうだわ……って、そうではなかった)
エイヴリルにとって問題なのはアレクサンドラの反応だった。
けれど、意外なことにエイヴリルに向けられているのは
丁寧に編み込まれたココア色の髪に花をあしらい、ルビーのような瞳をした彼女は、穏やかにたおやかに、優しい眼差しで微笑んでいた。
(才媛として知られるアレクサンドラ様……なんて素敵な佇まいなのかしら)
自分の立場も忘れて、エイヴリルはついぼうっとしてしまう。すると、頭上から低く
「私は、ローレンス・ギーソンだ。君が私の友人の妻となる人か」
「……! はい。エイヴリル・アリンガムと申します」
さすがに王太子殿下相手に名前をごまかすのは無理である。ちょっと
エイヴリルが淑女の礼をしてみせると、ローレンスの隣からルビー色の瞳をこちらに向けていたアレクサンドラが、手にした扇をぱちりと閉じる。
「私、エイヴリル・アリンガム様と二人でお話ししたいことがありますの。ランチェスター公爵閣下。エイヴリル様をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「!」
上品ながらもひやりとした声色に、背中を冷たいものが滑り落ちる。
にこりと微笑むと、エイヴリルはディランの腕から手を離した。
「才媛、アレクサンドラ様とお話ができるなんて夢のようですわ。ディラン様、私、行ってまいります」
「……エイヴリル。ここでは私とともに」
「いいえ。悪女の私はこういうことに慣れていますから」
すんと言い放つと、ディランの顔に普通とは違う類の心配が覗いた気がしたが、気のせいだろう。
そうして、エイヴリルはアレクサンドラと連れ立ち館内のサロンに移動したのだった。
二人のために特別に用意されたサロンは、豪華なものだった。
(ここも、真っ白な大理石の床と壁に高そうなテーブル! 本に載っているのを見たことがある絵の数々……そして何よりも、目の前にいらっしゃるのはアレクサンドラ・リンドバーグ様。私よりも二つ年上の二十歳で、アカデミーを出られた才媛……!)
これまで触れる機会がなかったが、目についた本を
ついきょろきょろとしていると、アレクサンドラは意外すぎる問いかけをしてきた。
「ねえ。あなた、ハンナという家庭教師を知っているかしら」
「!?」
聞き覚えのある名前に、エイヴリルは目を瞬く。それは、昔コリンナの教育を担当していた家庭教師の名だった。
コリンナの先生ではあったけれど、エイヴリルの境遇に同情し目をかけてくれた。
こっそりいろいろなことを教えてくれたのは、このハンナ先生だった。
ちなみに、そのことが継母にばれてハンナは解雇されてしまった。
何と返したらいいのかわからないエイヴリルに、アレクサンドラは問いを続ける。
「少し前にね、そのハンナが私の家庭教師をしていたことがあるのよ。今は結婚をして遠くに行ってしまったのだけれど」
「!」
(つまり……アリンガム伯爵家を出た後、ハンナ先生はリンドバーグ伯爵家でアレクサンドラ様を担当されていたということよね)
話の向きは見えないが、これはいよいよ雲行きがあやしくなってきた。
『元婚約者に手を出したことを罵られる』『身代わりであることを見抜かれ、一文無しでランチェスター公爵家を追い出される』その二択が、エイヴリルの脳裏に浮かぶ。
(どちらもなかなか最悪だけれど、どちらかといえば罵られる方でお願いしたいわ……!)
幸いこのサロンは人払いがしてあるし、誰かに怒られるのは呼吸をすること並みに慣れている。
けれど、アレクサンドラの意図するところは違うようだった。
「私がアカデミーを出て、能力を高く評価されていることはご存じかしら?」
「はい、もちろんですわ」
「そのハンナがね、よく言っていたの。私と同じぐらい物覚えのいい令嬢に教えたことがあると。ハンナは私を持ち上げる人だったから、実際は私以上なのでしょうね」
(え……っと?)
予想とは違う展開にエイヴリルが首を傾げると、アレクサンドラは知的な印象の目を細めて、柔らかに笑った。
「ねえ。あなた、詩の暗唱はできて?」
詩の暗唱は、この国の淑女にとって重要な嗜みだ。
教養の深さを表すために、お茶会などではよく詩の暗唱が行われる。育ちの良さや個人の評価にも直結するため、どこの家でも競うようにして教えるものだ。
(詩の暗唱でしょうか……コリンナは間違いなく苦手だったわ)
コリンナは詩の暗唱などできなかった。
暗唱どころか、スラスラ読み上げることも苦手なレベルである。となると、ここにいるエイヴリルもそれに倣うしかない。
(何とか、罵倒していただいてこの場を切り抜けましょう)
そうと決まれば話は早かった。エイヴリルの決意を知ることのないアレクサンドラは上品に告げてくる。
「何でもいいわ。お好きな詩を聞かせてくださる?」
「無理ですわ。何にも思い出せませんので」
罵倒で切り抜けるため、にべもなく断ったエイヴリルだった。しかし、意外なことにアレクサンドラには引き下がる様子がない。
「あらそう。それならいいわ。──陽が落ちる夕べに」



