【第三章】悪女、はじめました ⑧
『満ちるは木の葉の輝き
「知っているわね。しかも、これは有名な方のものだけれどあまり知られていないニッチな詩だわ。それを丸暗記ですごいわ、さすがね」
「……あぁっ!?」
失態にエイヴリルはくずおれる。気がついたら、アレクサンドラが口にした詩の続きをきりのいいところまで暗唱してしまっていた。
(……!? 私の口! どうしてこんなことに!)
たまに考えたことがそのまま口に出てしまうのは、エイヴリルの悪いくせである。
(だって、ちょうど好きな詩の一節だったんだもの)
エイヴリルに詩の暗唱を披露する機会はなかったが、読む機会はあったし自分でも好きだった。内容を暗記するのも、物覚えのいいエイヴリルにとっては造作もないことである。
がっくりとうなだれるエイヴリルに、アレクサンドラがなぜか勝ち誇ったように告げてきた。
「しかもね。私が今口にしたのは、古典語の方だったのよ。気がついたかしら? あなた、きちんと古典語で続けたわね。発音まで素晴らしかったわ」
「!?」
(……アレクサンドラ様って策士だわ。さすが才媛! と感動している場合ではなかった……)
引っかけ方から見て、アレクサンドラがエイヴリルを悪女と思っていないのは明白だった。
(罵倒してほしい……)
けれど無理なようである。エイヴリルの切実な願いもむなしく、アレクサンドラは本題に入った。
「私の元婚約者は、少し頭の足りない人だったの。わざわざ田舎町まで行き仮面舞踏会なんていうおかしな場に参加して、遊び相手を探していたらしいわ」
「……」
「それでね? その世界では評判の悪女に引っかかったらしくて婚約を解消することになったのだけれど……そのせいで、子どもの頃から存在自体がうっとうしかった王太子殿下と婚約することになって散々だわ。……ってこれは今お話しすることではなかったわね」
コホン、と咳払いをしてアレクサンドラは続ける。
「それで。どうしてあなたが悪女だなんて言われているのかしら。どう考えてもおかしすぎるのだけれど」
「いえ、私には至らないところもあるうえに、本当に悪女で、」
何とかアピールしたいところだったが、手持ちの札が少なすぎる。今日はクリスが選んだ公爵夫人にふさわしいドレスを着ているし、口紅の色も薄い。
せめて男性でも周囲に
(さようなら……素敵な契約に基づく、私の自由な人生……)
エイヴリルが本当のことを話す覚悟を決めている一方で、アレクサンドラはテーブルの上のお皿にのったリンゴを片手で持ったようだった。そして。
そのままぐしゃりと握りつぶした。
「……!?」
(才媛が……リンゴを片手でお潰しになる)
目を瞬いたエイヴリルだったが、アレクサンドラは毒花のようにあやしい微笑みを
「私ね。幼少の頃から持て囃されてきたの。そのような中で知った、私よりも賢い女の子ってどんな子なのかなってずっと思っていたのよ」
「……はい?」
意味がわからない。
「いわば、あなたは私の原動力みたいなものだったの。お父様の反対を押し切ってアカデミーに通ったのも、きっとあなたもやってくると思っていたからよ」
「あの……アレクサンドラ様?」
話の向きが見えない。ぽかんと首を傾げたエイヴリルの前で、アレクサンドラは続ける。
「それなのに、そのご令嬢にやっと会えたと思ったら、評判が最悪の悪女ですって? 一体どういうことなのかしら。あなたにきちんとした教育を与えず、悪女だなんておかしなレッテルを貼ったのは誰なの? 私が、その妹を八つ裂きにして差し上げるわ」
(……あの。悪女になりたいのは、私の意志なのだけれど。そしてアレクサンドラ様って……少しイメージが違うのですね!)
穏やかで優しい淑女の手本は一体どこに行ってしまったのか。
呆気にとられているエイヴリルの前で、アレクサンドラは手をハンカチで拭くとリンゴの惨状に似つかわしくない上品な笑みを浮かべる。
なかなかのコントラストに、エイヴリルは諦めることにした。
(もう……これは、大人しく白状するしかなさそうですね)
自分が『コリンナ』ではないことがバレバレなのだと悟ったエイヴリルは、ゆっくりと口を開く。
「……アレクサンドラ様は、私が誰なのかをご存じなのですね」
「ええ。今日、
まさに普通ならばその通りだし、至極当然の疑問だった。
「それが」
(契約書の内容を勝手に口外するのは守秘義務に反するわ)
アレクサンドラがゴクリと喉を鳴らす気配がする。
さすがに契約結婚とは言えない。それならば。
「私、悪女になりたいのです。心の底から」
「……なるほど」
「悪女になって、ディラン様……いえ、公爵様の心をわしづかみにしたいのです」
「……わ、わしづかみ?」
リンゴを握りつぶし、さっきまで穏やかではない空気を感じさせていたアレクサンドラの表情がぽかんとしたものになる。けれど、エイヴリルはそれに構うことなく続けた。
「公爵様は、あえて〝悪女〟であるエイヴリル・アリンガムに縁談を申し入れたのです。でしたら、その期待に応えないわけにはいきません。私は、愛する公爵様のため完璧な悪女になりたいのです」
「そ……そういうものかしら」
「そういうものですわ。わ、私は公爵様の理想の悪女になりたいのです」
「……ディラン・ランチェスターってそんなに女の好みが変だったかしら」
「ええ。変ですわ、変」
「だから、あんなに縁談を断ってばかりだったのね……? 確かに、良家の令嬢にここまで変わった悪女はいないもの」
才媛は簡単には
ディランには申し訳ないが、ここは変な悪女好きになってもらって話をおさめたい。
なぜか毒気を抜かれたような顔をしているアレクサンドラに向かって、エイヴリルは頭を下げる。
「ということで、私の中身が悪女ではないことは、どうか内密にしていただけませんか」
「ねえ。そもそも、悪女っていい要素なのかしら……?」
「公爵様にとっては、絶対、間違いなく、確実に」
「…………」
くり返して念を押すと、アレクサンドラはルビー色の美しい瞳を丸くして数秒間固まった後、くすくすと笑い出した。
「……そう、そうね。ええ、わかった。あなたはそれでいいと思うわ。頑張って悪女になったらいいと思う、私は応援するわ」
「はい、ありがとうございます」
(アレクサンドラ様はギャップが素敵な方ね)
お皿の上で無惨にも砕け散ったリンゴを見ながら、エイヴリルは感心した。
(ディラン様について大きな誤解を生んでしまったかもしれないわ。ごめんなさい……! でも、一応、契約はきちんと守っています!)
心の中でディランに謝罪をしていると、アレクサンドラは立ち上がりエイヴリルの手を取る。
「私、あなたのことがとても気に入ったわ。王太子殿下と公爵閣下のところへ戻りましょう。皆でお話がしたいわ」
〝悪女のふり〟がバレてしまったことは残念である。けれど、アレクサンドラはエイヴリルの味方になってくれるらしい。
よかった、とホッとして庭に戻ると、ディランと王太子であるローレンスが待っていた。
二人がついているテーブルの周りにはメイドが控えているものの、令嬢たちは誰も近づく気配がない。ポッカリとそこだけ空いていた。
社交の場で人を追い払うことはあまりない。ディランとローレンスが並ぶと、煌びやかすぎて誰も近づけないのだろう。
「エイヴリル。話は終わったのか」
目の前にいるディランは、エイヴリルの仮の夫となる大人の男性だ。姿も声色も堂々としているのに、なぜか視線だけは
(……もちろん、三年が経つまでは出ていくことなんてしないわ。契約だもの、当然です)
納得したエイヴリルは悪女の笑みを浮かべた。
「はい。私は良き妻として、また影の薄い公爵夫人かつ世間から印象最悪の悪女として、精一杯契約を履行いたします」
「…………」
契約上の、仮の夫が遠い目をした気がするのはエイヴリルの気のせいだろうか。
「まぁ、いい。私たちは初対面が最悪だった。これから
「……そうでしたか? 私にとってはとても素敵で忘れられません」
素晴らしい内容の契約結婚を申し入れられて、最高だった記憶しかない。
首を傾げたエイヴリルに、ディランはふっと優しく微笑んでみせた。
「……そういうところだ、エイヴリル」



