地球篇

1-1 西暦2519年、滅亡まで549年(女子高生、ゾンビになる)


「おめでとうございます。ゾンビの陽性反応が出ました」


 西暦2519年6月20日。医師が差し出した診断結果には〈ゾンビ(+)〉との記載があり、私はがくりと肩を落とした。


「嘘でしょ……ただの風邪だと思ってたのに」


 目じりに涙が浮かぶ。なのに目の前の医師はすこぶるうれしそうに話を続けた。


「まあ、そう落ち込まないで。かくいう私もゾンビですし」


 医師がおもむろに自分の右目を取り出し、私に向かって差し出した。取り出された眼球が、水槽から飛び出してしまった金魚のようにビクビク跳ねる。


「わ! しまってください!」

「じきに慣れますよ。あ、これ生活マニュアルです。ちゃんと読んでくださいね。ハイ、それではお大事に。次の方どうぞ」


 会計を待つ間、私は医師に手渡されたマニュアルに目を通した。

 〈はじめてのゾンビ生活〉というタイトルだ。第一章は食べ物編らしい。


「えっと、確か新鮮な食べ物は食べちゃダメなんだよね。そうそう」


 ゾンビは腐った物しか食べない。このご時世、それは常識である。

 私は心の中で刺身と寿司に別れを告げた。


「ふむふむ、発酵食品は人間と同じものを食べても良い……なるほど」


 科学的見地からすると、発酵と腐敗という現象に大差はないらしい。

 好物の納豆はゾンビになっても食べられると知って、私の気持ちはやや上向いた。


 会計を済ませた私は母親に電話する。


「そういうわけでさ、母さん。私の服とか二階にあげといて」

「あら、分かったわ。父さんによろしくね」


 母親の態度は至って冷静だ。それもそのはず、十年前、私の父親はゾンビになった。ゾンビは空気感染も飛沫感染もしないが、生活習慣が人間とはかなり異なる。住まいを分けるのが当然の習わしだ。

 二十六世紀の住宅のスタンダードは二世帯住宅なのである。これは日本もイギリスもブラジルも変わらない。


「ちょっとあんたがうらやましいわ。父さんと一緒に暮らせるのだもの」


 と、母親の述懐に私は少しだけ感傷的になった。


 病院の出口で、私はバスを待つ。

 かぐわしい香りが鼻孔をくすぐる。匂いの元をたどると、ゴミ箱だった。

 どうやら着実にゾンビ化は進行しているらしい。あと一週間もすれば、人間の歯は抜け落ち、立派な歯が生えてくるだろう。


「あら、あなたもゾンビ? 私もよ」


 私の隣に座った老婆はお菊と名乗り、あるものを私に差し出した。


「検査で疲れたでしょう。さ、召し上がれ」


 皮が真っ黒になったバナナを、私は黙って受け取った。朝から何も食べていない。お腹が空いていた。皮ごとむしゃむしゃとバナナを食べる私を、老婆が優しい眼差しで見守る。


「美味しいでしょう? やっぱりバナナは腐ったものが一番よね」


 老婆は自分の分のバナナにかぶりつきながらそう言った。まるで遠足に来たこどものような表情だ。


「……随分と、楽しそうですね」

「ええ。ゾンビになってからというもの、体が軽くて軽くて。今ではもう車を食べることだってできるわよ」


 狼のように鋭い牙を口の隙間からのぞかせ、老婆が笑う。


 そうなのだ。この世界に、もうごみ問題は存在しない。ごみはゾンビの貴重な食料源だ。ゾンビは可燃ごみも不燃ごみも平等に食べてしまう。ゾンビはものすごい勢いで、地球を綺麗にしているのだった。

 昨今ではダーウィンの進化論にちなんで、ゾンビが人間の進化した姿であると主張する学者も多い。先ほどの医者が「おめでとうございます」と言ったのはそういうわけだ。


「さ、仕事仕事っと」


 老婆は立ち上がると、ベンチ脇のごみ箱の蓋を開け、パクパクとごみを食べ始めた。


 やがてバスがロータリーに入って来たので、私は立ち上がった。


「最初はみんな落ち込むのよ。でも大丈夫。あなたの大切な人も、きっとすぐこっち側に来てくれるわ。本当よ」


 老婆の声に背を押されるようにして、私はバスに乗り込んだ。


 バスがみるみるうちに国立ゾンビ感染症センターから遠ざかる。


 家に帰ると、父親が夕食を準備して待っていた。母親から連絡を受け、会社を早退したらしい。


「またお前と食卓を囲める日が来るなんてなぁ……うぅ。さぁ、食事にしよう」


 食卓には、アオカビの生えた天ぷらとごはんが並んでいる。このメニューに私は見覚えがあった。一週間前に母親が作った料理だ。どうやらゾンビの口に合うように熟成させていたらしい。


「……頂きます」


 皿の上をぶんぶん飛び回るハエを手で追い払いながら、私はごはんを食べる。美味しい。自分の体が順調にゾンビになっていくのが悔しくて、私はぽろぽろと涙を流し、始まったばかりの高校生活を思った。ゾンビには特有の体臭があるから、クラスを変わらなければならない。せっかく今のクラスに慣れてきたところだったのに、悲しくて仕方がなかった。


「大丈夫だ、じきに慣れるさ。ゾンビの方が体が丈夫だから仕事も探しやすい。宇宙飛行士にだってなれるかもしれないぞ」


 ゾンビ歴十年の父親がそう言って私を慰める。

 そうなのだ。酸素や新鮮な食料を必要としないゾンビの需要は日に日に高まっている。故に、月面基地や火星の植民地で働く人はみなゾンビである。

 人類の文明はゾンビによって支えられているのだ。


 つけっぱなしのテレビから本日のニュースが流れる。


「人類の総人口に占めるの割合が四割を突破しました。パリでは権利向上を求めるためのストライキが行われています」

「……新人類? 何それ?」


 テレビにはデモ行進しているゾンビたちの姿が映しだされている。

 聞きなれないフレーズに戸惑う私をよそに、父親はテレビの音量を上げ、興奮した面持ちで叫んだ。


「やったぞ! ゾンビという呼称は本日をもって廃止された! もう我々は卑屈になることはないんだ! 次の地球の主人は我々なのだから」


 父親がおもむろに指を目のあたりにやる。


「ちょっと、目玉くりぬかないでよ」


 父親は何も答えず、私の前に拳をかざした。そっと開かれた手のひらの上には黒のカラーコンタクトレンズがあった。

 恐る恐る顔を上げる。覚悟はしていたが、正視できるものではなかった。


 ゾンビ特有の、深紅色の瞳――


 本能的な恐怖にかられ、私は壁際まで飛びすさった。

 父親は怖がる私を面白がるように、一歩ずつ距離をつめてくる。


「やめて。来ないで」


 膝ががくがくと震え、私はその場にうずくまった。

 さっきまで自分が座っていた椅子を手元に引き寄せ、バリケードにしようとするが、父親は薄ら笑いを浮かべると、私の手から椅子をもぎとった。

 椅子をもぎとられた衝撃で、私は地面に倒れ込む。

 父の足が、無遠慮に私の頭を踏んだ。


「――よくも今までバカにしてくれたな」

「違う。バカになんかしてない」

「いや、バカにした。俺を臭いと言って二階に追いやったのは誰だ? 感染を恐れて一度も見舞いに来なかったのは誰だ? 私はゾンビなんかにならない、と散々俺をバカにしたのは誰だ? 何でも食べられるからと言って残飯にガラスのかけらを紛れ込ませたのは誰だ?」

「ごめんなさい。ごめんなさい父さん。許して……」


 急速に遠ざかる意識の中、私は〈はじめてのゾンビ生活〉の一節を思い出していた。


 ――なお、ゾンビという呼称は差別的な響きがあるため、〈新人類〉という呼称にすべきだという見方もあります――


 そう、私は新人類。旧人類の黄昏時代に生まれた命。

 父の怒号を子守歌に、私はまぶたを閉じる。

 今の自分の瞳の色は何色かなと考えながら。

刊行シリーズ

はじめてのゾンビ生活の書影