1 ②

 ……その二つの声はぼそぼそと、街の裏通りの片隅で話していた。


『頼むよ、なあ』

「うるさい──黙っていろ」

『どうせアンタも長くないんだからよ、道連れは欲しくないのか』

「……おまえとは関係ない」

『なあ、頼むよ。オレを殺してくれよ』

「ふざけるな……おまえのためにどれだけの犠牲が出たと思っている。おまえにはしかるべき仕事を果たしてもらうぞ。……きっちりとな」

『殺してくれよ、なあ、いいじゃねえか。大した手間じゃねーよ』

「…………」

『もう生きていたくねーんだよ。こんなニセモノの生命なんぞにしがみついているのはもう飽き飽きなんだよ。なあよお。情けをかけると思ってよお』

「…………」

『オレを殺してくれよ。頼むよ、なあ──』


 ……声は通りを抜けていき、そして駅前の繁華街の方へと向かっていく。


    *


 目当てのきようたいがみなふさがっていたので、なみひろしが順番待ちの暇つぶしにゲームセンターの隅っこでピコピコと卵形をした家庭用ゲーム機の携帯端末をいじっていると、


「おや、君もそのソフトやるのかい」


 と頭上から声をかけられた。

 顔を上げると、灰色の男が立っていた。歳は三十から四十くらいだろうか。しかし中年の年齢というのは中学生の弘にはよくわからない。

 灰色、というのは着ている服が前をぴったりと閉じたグレイのロングコートだったからだが、それだけでなくどこかすすけたような感じのする、ぱっとしない男だったので灰色のイメージがしたのである。

 男はにこにこしている。見ると、その手元には弘と同じ卵形がある。


「……あんたもやるのか?」


 彼がこんな中年男と一対一で話をすることはめったにないが、ゲームという共通基盤があるならものじすることはない。


「いや、私の端末はどうにもグレードが低くてね。誰かとデータを交換しないと、ろくなアイテムを拾ってこないんだ」


 男はぼやいた。弘はその嘆きが真に迫っていたので、つい笑ってしまった。


「なんだよ、毒消しばかりたまっちゃってるとか」

「そうなんだよ。使いようがなくてね。売っても大して金にならないし」


 二人はそのゲームをやらない人間には意味不明の会話を和気あいあいとした。


「じゃあ対戦しようか? でもおっさん、俺のレベルは五十六だぜ。相手になるかい?」

「私のは四十二だ。厳しいけど、でも完全に勝負にならないほどじゃないだろう?」


 そこで二人はそれぞれの携帯情報端末を接続して、ピコピコとやり始めた。

 男はよくやったが、しかしいかんせんこういうものは子供の方が強い。結局ゲームは弘の勝ちということになった。


「じゃあそっちからデータをもらおうか」

「しかたないな」


 弘は画面を切り替えて、男の持っているデータの一覧を参照した。簡単な単語でアイテム名がずらずらと並んでいる。


「ほんとに毒消しばっかりなんだな!」


 弘は〈POISON〉とばかり表示される内容に笑った。

 だが、そのなかのひとつに見たこともない名前があるのに気がつくと「ん?」と眉を寄せた。


〈EMBRYO〉


 そう表示されている。


「なんだこの〝えむびょー〟とかいうのは?」

「あ、それはついさっき見つけたもので、私も何なのか知らないやつだ」


 灰色の男があわてたように言った。


「そいつは見逃してもらえないかな?」

「だめだめ。勝負の世界は厳しいんだよ。レアアイテムはさっさと本体にセーブしとかなきゃな。油断大敵ってことだよ」


 弘はせせら笑いながら、その〈EMBRYO〉というのを自分の端末に移した。


「やれやれ。うまく行かないものだなあ……」


 男はため息をついた。


「おっさん、修行が足りないね」


 言ってやると、男は笑った。


「まったくだな」

「ま、安心しろよ。このアイテムは俺がじっくり研究して役に立ててやるから」

「どうかな……君の手には余ると思う。どうせすぐに移動するだろうな。それにはそういう性質がある」


 負け惜しみのようなことを言われたので、弘はかちんときた。


「あんたよりはうまくやれるさ」

「そうかい。頑張ってくれよ」


 妙に真面目な口調で言われたので、弘は違和感を感じた。


「え?」

「たとえそれが、君の手からすぐに離れることになっても、その後で持つことになる者すべてに、ぜひ頑張ってほしいものだ、本当に……」


 ぶつぶつと、男は独り言のように言った。


(……負けたのがショックだったのかな?)


 弘はいぶかしんだが、しかしはっと気がついて腕時計を見た。


「あ、もうこんな時間じゃんか!」


 今日は、両親ともに帰ってこないので姉と外で待ち合わせて食事することになっていたのだ。


「じゃあな、おっさん!」

「ああ、さよなら」


 男は去っていく弘に軽く手を振った。

 そして、そのまま店の通路に立ちつくしている。

 数分後、その通路を通ってトイレに行こうとした者が「すいません」と男の肩に軽く接触した。

 すると次の瞬間、男の上体がぐるっと回転した。

 そして胴体の真ん中からまるで枯れ木のように、ぼきり、と折れて下半身が立ったままの状態で、上半身が完全に下の方を向いてしまった。


「──わっ?!」


 通行人はびっくりして男から飛び退いた。

 男の灰色のコートがまくれ上がり、その中身が見えた。

 そこには──何もなかった。

 上半身と下半身の間にあるはずの〝お腹〟に当たる部分が空っぽになっていた。上と下はかろうじて背骨一本でつながっていて、ヤジロベエのようにバランスをとっていただけだったのだ。

 男の身体が崩れ落ちた。

 そして、これまでどうしてかその傷からほとばしることのなかった血が、ゆっくりとフロアリングの上に広がっていく。

 ぴくりとも動かず、完全に死んでいるのは明らかだったが、腹のすべてをえぐり取られてそれでも動いていたこの男が、いったいいつから死んで──いや殺されていたのか、店の中の誰一人として想像もつかなかった。


    *


「でも……」


 女子高生の穂波あきはバイト先のコンビニエンスストアで一緒の同僚、たかしろとおると一緒に街を歩いていた。たまたま一緒に仕事が終わったので、その帰り道である。


「高代さんて、いい身体してますよね」

「あ? あー……ま、そうかも、な」


 亨は背が高い。百九十センチある。体重は七十五キロで背丈の割には瘦せているが、そうは見えないのは背中や肩に筋肉が盛り上がっていて、上半身にボリュームがあるからだ。

 年齢は十九歳。学校には行っていない。社会的にはいわゆるフリーターである。


「バスケットとか、やっていたんですか」


 顕子は興味しんしん、という顔である。彼女は以前からこの大男に関心があった。彫りの深い顔立ちでどことなく神秘的な雰囲気があり、歳の割にひどく落ち着いたところがあるのが気になっていたのだ。


「あー、それ、よくかれるんだが、そういうのはどうも苦手で、な」

「そういうの、ってどういう意味です?」

「あー、なんつうんだその、スポーツ、とか」


 亨はばりばりと頭をかいた。天然パーマがかかっている髪は中途半端な長さの、長髪と言えばそうなのだが、ただ単に何ヶ月か切っていないだけ、という感じだ。


「でも鍛えてるみたいじゃないですか。運動が駄目って訳じゃないんでしょう?」


 バイト先のコンビニでも、荷物をたくさん持ってきびきび動くのを彼女は何度も見ている。掃除をするのもすごく早く、モップさばきが素人しろうとじゃないなとか店長に言われたりもしているのだった。


「うん、まあ、やりゃできるのかも知れないが、あまりやる気になれないというか。本気になれそうにないというか」


 亨はなにか歯切れが悪い。


「高代さんには夢とかあるんですか?」


 彼女がそう訊くと、亨は困った顔になった。


「あ、あー……そうねえ、夢、つうのかな」