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それはまだ亨が中学生だった頃のことだ。
その成長途中の当時でさえ、亨は百七十五センチもあり、立派な身体は時折大学生に間違えられるような有様だった。通っていた中学校はお世辞にもガラがいいとは言えないところで、別にそれっぽい格好をしたり態度を装ったりしていたわけでもなかったが、亨はいつのまにかそこで時代遅れにも〝番格〟みたいな立場になっていた。
そしてある時、彼は自分のことを〝兄貴と呼ばせてくださいよ〟と慕ってきていた後輩がヤクザの売っていた覚醒剤で薬物中毒になりかけているのを知って逆上した。
幸いその後輩は、まだ致命的になるほどの薬物依存には陥っていなかったので回復し、更正できたが、亨はそれだけでは気がすまなかった。
その薬を売っていたヤクザを
亨はよくやった。
よくやった、と言うべきだろう。何しろ組み伏せられるまで十三人も倒して、何ヶ月も入院しなければならないような状態にしたのだから。だが
「くたばりアあこのイカレガキがアああ!」
だが、それはいつまで経っても来なかった。
「……?」
おそるおそる目を開けると、そこでは信じられない光景が広がっていた。
ひとりの……決して強そうには見えない中肉中背の中年男が、舞うようにそこで飛び回っていた。手には何やら棒きれのような物を持っている。
まるで魔法を見ているようだった。
その男は何十人もいたヤクザ達を、大して力を入れているようでないくせに棒きれを振り回すだけで次々と吹っ飛ばし、そして倒された者は二度と立ち上がらないのだ。
拳銃を撃ってくる相手にもかかっていくのに、何故か弾に当たらない。そのとき亨は、銃というのは射線が標的に一致していなければ無力であると言うことを思い知った。
そしてすべてを片づけてしまった中年男は、倒れている亨の所にゆっくりとやってきた。
「やるなあ、おまえ」
うんうん、とうなずきながら男は感心したように言った。
「その歳で大したものだ。だが一つ忠告させてもらうが、おまえは身体を動かしたいなら、ドツキ合いは避けた方がいいな。球技とか、陸上とかの方がいい」
「……な、なんで?」
亨は茫然としながらも訊き返した。すると男は苦笑いを浮かべた。
「おまえ、ちとムキになりすぎるタチなんだよ。昔の俺みたいに、よ。だからやるなら大っぴらに〝勝ち負け〟をはっきりできるものの方がいいんだ。ドツキ合いはおまえみたいな奴だと──どこまでやってもキリがねーぞ」
なんだかよくわからないことを言われて、亨は目をしばたいた。
「あ……あんたはいったい、なんなんだ?」
「あー、そうだなあ」
この奇妙な中年男は少し考えてから自分の手にした棒を見ると、ニヤリとして、
「サムライ、てことにしとくか」
ととぼけて言った。
そこに遠くから声がかけられた。
「
誰かが、男を呼んでいるらしい。
「ああ、悪りい悪りい。今行くよ」
中年は返事をすると、棒を投げ捨ててきびすを返しそのまま亨の所からさっさと離れていってしまった。
「……」
亨は呆然としていた。
やがて殴られた衝撃も身体から消え、
何年も前の話だが、亨は今でもその時のことをはっきりと覚えているのだった。このすぐ後、亨の両親が揃って交通事故で亡くなり、彼が
あの〝サムライ〟と名乗った奇妙な男の存在が、不幸に叩き込まれた少年の人生を前向きなものに変えたのだった。そしてそれはそのままこの少年の人生の目標になったのである。
だがこの目標の最大の難点は……なんだかとりとめがなく、どうすれば目指せるのかよくわからないということだった。
……彼が〝手がかり〟を摑むまでは。
*
街中で乱闘騒ぎのあげく銃を乱射した男は通報に駆けつけた地元警察に逮捕された。すでにそのときには男と争っていた者たちの姿はなく、警察はとりあえず男を拘束し事情聴取にかかった。だが男は完全な黙秘を続け、その身元すら不明だった。
警察はやむなく男を留置場に入れて、経過を観察することにした。
そして、その深夜──
「…………」
囚人は留置場の狭いベッドの上で、まんじりともせずに天井をじっと見つめていた。
囚人は、ぱっと見には無表情だ。唇を一文字に閉じて、正面を向いている目も動かずにじっとしている。
だが、それでもある種の人間には……そう、例えばテニスの一流プレイヤーのように一対一で勝負しているとき、相手の表情から調子を読みとる能力に
それは〝待っている〟表情だと。
何かが彼の下に確実に近づいてきており、それを待っている──いや待たざるを得ないのだと。そして待っていることはこの男にとってはこの上もなく恐ろしい──
〝恐怖〟
いずれやってくるはずのそれが男の全身を縛りつけ、故に何も言えず、動くこともできないのだ、と。
その留置場にはその男がただ一人入れられているだけだ。周りの同種の房にも誰もいないので、しーん、と静まり返っている。
そして、その動きのない世界で、とうとう囚人が反応を見せた。
びくっ、とひきつったように
そこに、何者かが立っていたのだ。
ベッドを覗き込むようにして、いつのまにか囚人のすぐ側にまでやってきていたのだった。
「…………!」
物音はなかった。足音はおろか牢獄の鍵がかちりという音すらしなかったし、それ以前に誰かがやってきたにも関わらず、すぐ向こうにいるはずの看守が何の反応も見せていない。
はね起きようとした。だが、どういう訳か身体が鉛に変わってしまったかのように、びくともしない。金縛りにあっていた。侵入者に、何かをされたのだ……だが何を? 触られたり攻撃を受けたりすれば、わかるはずだ。だがまったく……そんな感覚などまるっきりなかった。
「……おまえは」
侵入者はそれほど背が高くはなかったが、手足が長く均整の取れたスマートな体つきをしていた。顔は童顔だが、妙に鋭さが突出しているので〝少年〟とは呼びがたい雰囲気がそこにはあった。
薄紫の、身体にフィットした服を着ていた。
「おまえは……持っていないな」
薄紫の男は静かに言った。日本語ではない。
「…………!」
囚人の顔から、どっ、と冷汗が吹き出すように流れ出た。
「では〝あれ〟を持っているのは今、誰なんだ……? おまえは、それを知っているのか?」
薄紫の男は、淡々とした口調で訊いてくる。
「う、ううう……!」
「誰が〝エンブリオ〟を持っている? あのサイドワインダーという戦士はなかなかの強敵だった。致命傷を受けながらも奴は俺から逃れた。そして誰かにあれを託したはず……それは誰だ?」