2 ①

 ──ごきっ、

 ──ぐかっ、

 ──めきょっ、


 ……その音は、街の隅の暗がりから聞こえてくる。


「……しかし、パール。なにもそこまでしなくてもいいのでないか?」


 男の声がそれに被る。


「念には念を入れないとね。それに、もしかするとあの〝サムライ〟もう既に〝突破〟しているかも知れない。用心に越したことはないわ」


 女の声もする。


「しかし……うまく引っかかるかな?」


 不安そうな男に対し、女は自信たっぷりに、


「あの手の男はよく知っている……自分ができることをやらないということに我慢できないタイプだ。必ず、奴は自分からわなに飛び込んでくることになる。〝自分は強い〟ってうぬぼれたっぷりにね」

「…………」

「さて……こんなものだったかしら?」


 響いていた奇怪な音が一段落すると、女は暗がりから一歩前に出た。

 そこには若い女子高生が一人立っていた。


「どう?」


 その声が、さっきまでとは違う、もっと幼い感じのそれになっていた。


「……まるで区別がつくまいよ」


 男がその姿を見てため息をつくのが聞こえた。


    *


 十五歳の高校生であるこのぼく、たにぐちまさはその日は朝から大いに浮かれていた。

 ぼくはちょっとした事情で、校則の厳しい学校の寮にここ数週間閉じこめられて、補習補習の日々を送っていて、そしてその日はやっと許された外出の日だったのだ。

 学校の友達とのちょっとした約束を果たした昼過ぎには、もうぼくは自由の身で、街を歩きながらも、ついスキップなどしてしまいそうになる。

 フフフン、とか鼻歌まで出てくる。

 ぼくは寄り道などせずに、まっすぐに家に向かう。

 家には両親はいない。二人とも仕事で外国に住んでいるのだ。だからぼくは血のつながらない凪姉さんと二人暮らしだ。といっても今はその他にも、ぼくの友達でおりはたあやという少女も、凪姉さんの世話になる形で一緒に住んでいるはずだ。

 そして……これは言うのも照れるが、ぼくは織機のことが好きで、彼女の方もぼくのことがまんざらでもないらしいのだ。はっきり確かめられたわけじゃないけど。


「てへへ……」


 つい、にやにや笑いが顔に浮かんだりする。

 そしてぼくは静かな住宅街の一角にある一戸建て住宅の我が家に到着した。

 もんに手を掛けて、ぼくは「あれ」と思った。なんだかノブの手応えが妙に固いのだ。しばらく開けてなくて、ほこりが固まったかのような感触があった。


「…………」


 嫌な感じがした。

 ぼくはゆっくりと進み、玄関の前に立った。ドアには鍵がかかっている。まあ、これは別に異常ではない。姉さん達は留守ということも考えられるからだ。

 しかし、ぼくはそこから入るということはせずに、裏口の方に回った。我ながらちょっと神経質かな、とも思うが、ぼくは子供の頃に長い外国暮らしをしたせいで全般的に〝用心〟する癖がついているのだ。

 もちろん合い鍵を持っているので、ぼくはあっさりと裏口から屋内に入った。

 入った瞬間、絶句した。


「…………?!」


 裏口はすぐキッチンに続いている。寮に入れられる前にはぼくがそこでご飯を作ったりしていた場所だ。

 しかし、そこには……なんのもなかった。流しのぴかぴかなステンレスは、しばらくの間一滴の水もそこに通らなかったことを示していたし、横に立ててあるまな板もカラカラに乾いていた。そして……何もない。洗い置きのコップも、スポンジも、タワシも、塩や砂糖や調味料や、たばねて常備しているはずの薬味用のネギなどが何もないのだ。

 そして静かすぎる──冷蔵庫の電源が切れていて、ぶーん、というノイズがしていない。

 ……人が住んでいる気配がまるでない。空き家なのだ。

 そして、もうひとつ気になることは……


(ど、どうなっているんだ、これは……?)


 ぼくは、落ち着け、と心の中で自分に言い聞かせながら家の奥へと入っていった。

 足音を忍ばせて、ぼくは廊下を抜けてリビングの方に向かった。

 人の気配が、そこからするのだ。誰もいないはずなのに、誰かがそこにいる。


(──まさか織機に関わる誰かが……?)


 彼女に関わるトラブルは終わったと思っていたが……。


(でも何者であれ、もう織機にひどいことをするのは許さないからな……!)


 とぼくはそれなりに決まったことを決意して、覚悟を決めて気配に接近した。

 だが、その室内に一歩足を踏み入れたところでぼくの足は止まった。

 覚悟も何も忘れて、ぽかん、としてしまった。なぜならそこに立っていたのはひどく奇妙で非現実的な奴だったからだ。


「──あなたが谷口正樹か?」


 そいつは話しかけてきた。でもぼくは返事をするどころではなかった。


「……なんだあ?」


 ぼくは思わず声を上げていた。

 そいつは何というか、一言で言うならば、そう──

〝おさむらいさん〟

 ──とでも言うのか?

 着物を着て、はかまをはいている。時代劇とか江戸時代のテーマパークなどでお馴染みの、ああいう姿をしていたのだ。しかも、その男はLLサイズの大男のくせに、着ている物はてんで小さくて、つんつるてんになっているのだ。

 手にはぼくとうを持っている。それをぼくの方に、すうっ、と向けてきた。


「一手、なんをお願いする」


 格好同様に、時代がかったことを言ってきた。


「な、なんだあんたは? どこから入ってきた?」


 とぼくが訊こうとしたら、その瞬間そいつはいきなり襲いかかってきた。


「──!」


 ぼくは横っ飛びにかわした。振り下ろされた木刀が、がん、と床に当たって音を立てた。


「な、何するんだ?!」


 ぼくが声を上げると、またそいつはかかってきた。

 ぼくは懸命に逃げる。だがリビングは決して広くない。逃げ場所にも限度がある。

 そいつはソファやテーブルを木刀でぶっ飛ばしながらぼくに迫ってきた。


「──ええい、いったい何なんだよ!」


 ぼくはムカッ腹が立ってきた。なんだって、織機に久しぶりで会えるとハッピーな気持ちで帰宅したのに、訳のわからない変な侍に襲われなきゃならないんだ?

 ぼくは侍野郎に向き直った。

 すると奴も、ぴたり、と構えを直してぼくにたいした。

 にやり、と笑いやがった。

 ぼくはさらにときた。

 正拳をかまえて、そいつとの間合いを一歩詰める。

 そいつも、同じように近づいてきた。


(…………)


 ぼくは、ちら、と足元を確認するために視線を下に向けた。

 その途端、奴は突撃してきた。

 だが──何度か攻撃を受けて、ぼくにはもうわかっていた。

 そのまま、正拳を前にではなく斜め下に振った。それは相手の振り下ろされる途中の木刀をぎ払っていた。思った通り、ただ力任せに上から下に動かしていただけのそれは〝後押し〟をされてあっさりとコースを変えて、振り下ろした当の本人の身体を引っ張った。


「──!」


 侍の顔が一瞬強張るのが見えた。腕が伸びてしまって、腹部ががら空きになってしまったのを悟ったのだろう。

 その通り。だがもう遅い。


「──ふほっ!」


 ぼくが呼気とともにそいつの鳩尾みぞおちに一撃を叩き込むと、そいつはずるずると崩れ落ちた。

 ぼくは倒れ込むそいつを抱えて、辺りを見回して、とりあえず電気スタンドのコードで気絶しているそいつを縛り上げた。


「……やれやれ」


 ほっと一息つき、しかし、とぼくはあらためて事態を把握しようとした。


(こいつ……何者だ?)


 はっきりしているのは、こいつは剣に関して、実は素人ということである。やみくもに振り回していただけで、技も何もあったもんじゃなかった。そのくせ身体の切れそのものは速かった。それだけを見れば素人ではない。しかしそれは一体、どういうことなんだろうか?