2 ③
*
「……ううん」
高代亨は
なんだか、変な夢を見ていたような気がする。しかし夢の常としてはっきりとは思い出せない。
伸びをしようとして、そして気がつく。
「……あれ?」
いつのまにか、電気のコードでぐるぐる巻きに縛り上げられていた。腕はまったく動かせない。
「あ、えーっと……」
声がしたので顔を上げると、さっき彼を叩きのめした谷口正樹という少年が困ったような顔をしてこっちを見ていた。
「ああ、正樹さんですね!」
亨は顔をぱっ、と輝かせた。
「さっきは申し訳ありませんでした。しかしどうしても一度本気でお手合わせ願いたかったんですよ! 俺は高代亨と言います。榊原弦先生に昔命を救ってもらったことのある者です!」
さわやかに明るく言うと、正樹はますます困った顔をした。
「あー、そのですね……なにか勘違いされているようなんですが、別にぼくはその、師匠の一番弟子とかそういうんじゃなくてですね……」
正樹が弁解するように言うが、亨は聞いていない。
「いや、見事なお手並みでした! やられながら、負ける理由までもはっきり実感できましたよ!」
亨は負け惜しみでも何でもなく、本当に心から感嘆していたので思った通りに言った。
「うーん……」
正樹は唸ったが、やがて息を吐いて、
「まあ、事情は姉から今、電話で聞きましたが……その、とりあえず
「ああ、いや、別にかまいませんけど」
亨が平然と言うと、
「……こっちが気になるんですよ。縛り上げられた相手にニコニコされてたんじゃ落ち着かない」
と正樹は苦り切った顔で亨を縛り上げていたコードをほどいた。するとまた亨が、
「……今、何をしたんです?」
と訊いてきた。
「いや、別にほどいただけですけど」
「だってがちがちになってたじゃないですか。一瞬でするっとほどけましたよ?」
「あ、いやこれはその、師匠から教わって」
と言いかけて、正樹ははっとして口をつぐんだがもう遅く、亨はますます尊敬のまなざしで正樹を見つめてくる。
(……うーん)
正樹は困惑しながらも内心で感心した。
(師匠、変なところで人望があるんだなあ……ぼくと一緒の時はふざけてばかりだったけどな)
いつのまかニヤニヤしていたらしい。
「いや別に。それより、何が訊きたいんですか? ぼくの知ってることなら師匠について教えてあげますよ」
正樹の機嫌はいつのまにか直っていた。
……とは言ったものの、ぼくもそんなに知っているわけではないのでどうしても答えは半端なものになりがちだ。
「いや、師匠が今どこにいるかっていうのは、ぼくにもよくわからないんですよ。風来坊ですしね、基本的に」
「でも、正樹さんに連絡とかはあるんでしょう?」
「まあ、たまには。……あのですね亨さん」
「なんでしょうか?」
「その、敬語はやめてくれませんか。あなたの方が年上なんだし、正樹って呼び捨てでいいですよ」
「いやあ、そうはいっても兄弟子に当たる人ですし」
高代亨はきっぱりと照れもせず言った。
「いや、それなんですよ。あなたの話じゃ、師匠はぼくより先にあなたに会っていることになる。そういう意味じゃそちらの方が先輩ですよ」
「うーん、……まあ、そう言うなら。でもそれだったら俺のことも亨って呼んでくださいよ」
「うん、そうしましょう。……じゃ話を戻しますが、師匠からの連絡というのも、向こうから電話がかかってきたり絵はがきが来たりといったもので、ぼくからはできないことが多いですね。向こうの居場所がわかんないので」
「電話ですか。それはどんなことを?」
「いや、なんかいつも他愛ない話ですよ。日本語が聞きたくなったんでかけた、とか。ああ、そう言えば一番最後のヤツは去年の冬ごろだったかな。なんでも娘ができたとか言って大喜びしてたな」
「娘、ですか? ……結婚したんですか」
「どうでしょうか。相手がいるかなあ。詳しいことは聞かなかったけど」
というか、師匠は「めでたいめでたい」とか一人ではしゃいでいたのでこっちからろくすっぽ話ができないうちに「あ、金がなくなった。じゃな」と一方的に切ってしまったのだ。まあ楽しそうでいいな、と思ったものだ。姉さんにも言ったけど「ふーん」で終わりだったし。
「娘、ねえ……」
亨はなにやら難しい顔をして考え込んだ。
「いや、だからね。師匠は亨が思ってるほど真面目な人じゃないよ。まあ腕は立つけどね」
「立ちますか。やっぱり」
「その辺は、亨の思ってる通りですよ。でもあれは才能なんじゃないかな。技を体系立て、分析した結果とかじゃないと思う。だからあんまし人に教えるとかそういうのが得意ってタイプではないと思うよ。ぼくもあんまり奥義とかそういうことは教わらなかったしね」
「でもあんたも強いじゃないか、正樹」
だんだん亨の言葉遣いが地が出てきてぶっきらぼうになっていく。しかしその方が話しやすい。
「いやあ、ぼくなんて師匠に比べりゃとてもとても」
それは確かだ。師匠はすごく強い。ぼくでは歯が立たない。朝も昼も夜も一緒だった三年間に何度も立ち合ったが、一本とれたことは数えるほどだ。
「じゃあ、何を習ったんだ?」
「うーん」
ぼくは困惑した。言葉にできないから、ではない。その逆だ。師匠はことあるごとにぼくに言っていたことがある。
しかし、それはちょっとこの亨には言いにくい。失望、というか混乱することは必至だからだ。
「必殺技、とか?」
やはり何かを期待してしまって目が輝いてきた。
「いや、そういうんじゃなくて……まあ極意みたいなものだけど」
「極意! そ、そいつをぜひ教えてくれ!」
詰め寄ってきた。仕方なくぼくは、師匠が言ったとおりのことを
すると亨の目が丸くなった。
「……は?」
「そう言われたんですよ。意味は、まあ自分で考えろとか言われてね」
ぼくは肩をすくめた。
「…………」
亨はぽかーん、と口を開けっぱなしにしている。
「いや、師匠って実は何冊か本なんかも出してるインテリでね。そういう意味ありげなこともよく言うんですよ」
「……本?」
また目が光った。
「いや、凪姉さんの、亡くなったお父さんと共著って形で。榊原弦って名前は出てないんだけど」
「……そんな物があるのか! い、今持ってないか?」
「……ぼくの手元には、ちょっと」
家の中が空っぽになってなきゃ姉さんの部屋にあったんだろうけど。
「本屋に売ってるか?」
「……どれがそういう本か、ぼくには区別つかないなあ」
「よ、よし! じゃあ教えてもらいに行こう!」
亨は立ち上がった。
「え? ど、どこに」
「霧間さんにだよ! すぐに戻ろう!」
と言うが早いが、例の侍の格好のまま彼は飛び出していった。
「ち、ちょっと待ってくれ!」
ぼくも、なんとなく放っておけずにあわてて亨の後を追った。
*
穂波顕子は、両親の帰ってこない自宅のマンションのダイニングキッチンで、ぼーっ、と放心していた。
目の前のテーブルには、あの後で亨から彼女に渡された弟のゲーム機用の携帯端末が置かれている。時計機能で、小さな画面の中で数字がカウントされ続けている。
「…………」
それを、ぼんやりと顕子は眺めている。彼女はそれを弟に返してやらなかったので、昨日のデータは本体に移されず今もそのままである。弟もあのどたばたのせいで中にデータを入れたことを忘れているのだ。
「…………」
「どうしたんだい、姉ちゃん?」
居間でテレビを見ている弟の弘が、そんな彼女に声をかけてきた。
「…………」
しかし彼女は答えずに、なおも卵形をした小さな機械を見つめている。
「おい、姉ちゃん」
「……うるさいわね。聞こえてるわよ。なんでもないわ」
顕子は不機嫌そうに言った。
「……なあ、姉ちゃん。あの霧間っつー女、何者なんだい?」