2 ④

「知らないわよ」

「正直、俺ちょっと怖かったんだけど。姉ちゃんの友達なのか」

「知らないって言ってるでしょ。別に友達って訳じゃないわよ」


 姉は不機嫌さまる出しだ。弟はため息をついて、再びテレビ鑑賞に戻った。サッカー中継がだらだらと続いている。惜しいシュート、キーパーのナイスセービングです、などとアナウンサーが喋っている。


「…………」


 そんな声を背景に、顕子はなおもテーブルの上を睨みつけている。


『……へへへ。どうやら弟には聞こえていないようだな』


 卵から声がしている。さっきからずっと、彼女に話しかけてきているのだ。


「…………」


 顕子は押し默っている。


『さて、あんたはこんなことを考えているんじゃないのか。こいつは幻聴なのか? なんてこと、アタシはおかしくなってしまったのか? とかな。だが残念ながら、それは違う……こいつはあんたとオレの波長が合っているからこそ、起こっている事態だ』

「…………」

『あんたには〝あと少し〟のことがある。あとほんのちょっと、ちょっとしたことでなんとかなることがある……オレはその殻を破ることができる』

「…………」

『ただし条件がある。オレをおまえが殺してくれることだ。オレはもう〝存在している〟ってことに飽き飽きしているんだよ』

「…………」


 この〝声〟がはじめて聞こえたのは、彼女と弟が謎の三人組に襲われる直前のことだった。

〝……オレを殺してくれ〟

 そう言いだしたのを顕子は確かに聞いた。それからあの事件のせいで、ろくすっぽ考えを整理できないまま、今まで時間が経ってしまった。

 しかし……


「…………」

『なあ──』


 と、なおも話し続ける携帯端末をつかんでペンダントチェーンのついたそれを首に掛け、ブラウスの中に押し込むと、彼女はテーブルから立ち上がった。

 そう、彼女はちゃんと聞いていたのだ。あのとき〝声〟を聞いたのは彼女だけではない。あの高代亨も確かに「そのゲームから声がしたろう?」と言っていた──彼ならば、亨ならこの奇妙な状況を彼女と共に考えることができる……!


「──あれ? どっか行くのか?」


 弘の問いに、彼女は「バイトよ」とぶっきらぼうに言った。


「えーっ、じゃあ今日の晩飯は?」

「好きな物、なんでも食べりゃいいでしょ」

「ホントかい? ピザ取っていいかな?」

「いくらでも取んなさいよ」


 彼女は返事もそこそこに、マンションから出ていった。


「……なんか変だな?」


 弘は姉の様子に首をひねったが、そのときテレビから「ゴォォォォール!」という声が聞こえてきたのであわててそっちに注意を戻した。

 そうして彼がしばらく試合に夢中になっていると、やがてベランダに続く窓の方から、かちん、という金属的な音が響いてきた。


「……?」


 そう言えばベランダの植木鉢によく猫がふんをするので困る、とか母親がぼやいていたのを思い出して、彼は立ち上がった。


「こら! この猫──」


 といきおいよく窓を開けた彼の前には、電気会社の作業服を着た男が立っていた。


「え……」


 と一瞬、弘は立ちすくむ。


「ちっ」


 とそいつは小さく舌打ちすると、次の瞬間いきなり弘めがけて棍棒のような物を突き出してきた。それは正確に弘の鳩尾にえぐるように入り、弘は吹っ飛ばされた。


「──げっ?!」


 リビングのテーブルとテレビをひっくり返して、弘は床の上に転がった。

 全身が痺れてしまい、立つことができない。


「…………」


 作業服の男はゆっくりと室内に入ってきた。

 そして辺りを見回し、そのまま他の部屋も見て回り、やがて動けない弘のところに戻ってきた。


「──姉の方はどうした?」

「……な、なんだおまえ……」


 声も、ぜいぜいとかすれて大きな声が出せない。


「姉はどうした、と訊いているんだ」


 男は弘の手を取ると、その小指をかるくねじりあげた。それだけの動作で、まるで信じられない苦痛が弘の全身に走った。


「……!」


 こんな痛めつけられ方は聞いたこともなかった。これは──プロの手口だ。作業員の服を着ているが、これは偽装で実際は電気会社の人間でも何でもないのだ。


(ど、どういうことなんだよ……? 昨日と言い今日と言い……)


 と思いかけて、弘ははっ、となる。そうか、こいつはあの昨晩の連中の仲間なのか……?


「姉は、俺が屋上からここまで降りるほんの数十秒の間に出かけたことになる。しかしおまえは残ったまま。……ということはこれは偶然であり、おまえらは別に〝気づいて逃亡を図っていた〟わけではない。つまりまだ〝エンブリオ〟はここにあるということだ」


 男は弘にまた棍棒を突きつけて、脇腹をぐいぐいと押してくる。その力は大したことないようなのに、弘にはまるで、野球のデッドボールがドテッ腹に直撃したときのような重い鈍痛が感じられるのだった。的確に内臓の〝痛みどころ〟をついているに違いない。


「言ってもらおう……今〝エンブリオ〟は何にとりついて、どんな形をしている? それはどこにあるんだ?」

「う、うう……!」


 男に何を言われているかもわからないし、こんな痛みにさらされるのにも耐えられない。弘はとにかく混乱してしまっていた。


「答えないと、おまえは死ぬことになるぞ。こっちはそれでもかまわない。いずれ戻ってくる姉の方をあらためて拷問すればいいだけの話なんだからな」

「…………!」


 弘の、混乱に濁っていた眼の色が変わった。なんだって? こいつは姉ちゃんも殺すつもりなのか……?


「ん……?」


 男が、急に自分を力強い眼で睨み返してきた少年の様子に眉をしかめるのと同時に、室内に、〝ぴんぽーん〟

 とのんなインターホンの音が鳴り響いた。


「……客か?」


 男が身構える。インターホンはさらに何度も何度もぴんぽんぴんぽんと鳴らされる。


「すいませーん、お届け物なんですがあ」


 若い男の声が聞こえてきた。

 しかし男はもちろん返事をしない。弘も、声を上げたいのだが男に喉を押さえつけられていてできない。


「だから、お届け物なんですがねえ……いないんですかあ?」


 イラだった声がドア越しに聞こえた。男はニヤリと笑い、口元で、


「ああ、誰もいないのさ」


 と呟いた。


(…………!)


 弘の顔が苦悩にゆがんだそのとき、


「おい、噓つくんじゃねーよ」


 と、一転して鋭い声がした。

 そしてドアが、かけられていた鍵などなかったかのように平然と、ごく当たり前のように開いた。


「な……!」


 男が眼を見開く。


「噓はよくない、と子供の頃に誰かに教わらなかったのか、おまえ」


 と、ドアの外に立っている者が静かに言った。

 少年だった。だがなんとなく、その少年の雰囲気には成人男性もかくやというただならぬものがあり、そのために少年と呼ぶのがためらわれるところがあった。

 薄紫の、身体にフィットした服を着ているそいつは、ポケットに手を突っ込んでいた。しかし──それならどうやって、今鍵の掛けられていたはずのドアを開けることができたのだろう……?


「き、貴様は……?」


 男が問いかける間にも、そいつは室内にどんどん入ってきた。

 男は消音装置付きの拳銃を引き抜いて、ためらうことなくそいつめがけて発砲した。

 だがそいつはよけもせずに、そのまま前進してきた。

 ……何発も発射されたはずの弾丸が、当たる前にどこかに消えてなくなっていたのだ。


「……え?」


 と男がどうなったのか知るまでもなく、そのまま歩いてきたそいつが無造作に手を横にぶんと振ると、男の首は胴体から離れて弾き飛ばされた。

 血は一滴も出ない。

 だが──もちろん即死だ。


「…………」


 倒れたままの弘は、ことの成り行きにぼうぜんと口を開いているだけだ。

 何がどうなったんだ? たった今、謎の強盗みたいな奴が押し掛けてきたかと思ったら、今度はまた別のさらに訳のわからないヤツがやってきて、そして……