3 ①

「……?」


 亨が、いきなり後ろを振り向いた。

 場所はぼくの家、谷口家から凪姉さんのマンションに至る途中の、川縁の道だ。下校してくる学生達も一段落ついて、あたりに人影はなくなっている。


「正樹──あんたは聞いたか?」

「どうしたんだい?」


 ぼくが訊ね返すと、亨は辺りをきょろきょろと見回して、


「いや──いま誰か、俺の名前を呼んだような」


 と言った。ぼくも耳を澄ませてみる。


「……何も聞こえないけど?」


 それ以前に、広々と見渡せる道には何者の姿もないのだ。


「声じゃなかったかも知れないが……なにか、俺に向かってくるような、なにかを」


 ぶつぶつ言いながら、なおも周囲を警戒している。ぼくにはちんぷんかんぷんだが、なんとなくその亨の様子に、真剣なときの凪姉さんや師匠に共通する雰囲気を感じたので、ぼくも緊張してきた。

 そのときである。

 ぼくらが向かっていた方角から、がらがらがっしゃん、と何かが激しく崩れるか何かした大きな音が響いてきた。遠い──それで聞こえるということは相当のことであり、つまり事故の可能性が高い。


「────!」


 ぼくらは一瞬顔を合わせると、その音のした方向へと走った。

 黒い煙が立っていた。それは横転してガードレールに突っ込んだスクーターが燃えているのだった。


「乗っていた人は……?」


 ぼくらはスクーターに近づいた。

 すると横に女の人が倒れている。亨が駆け寄った。


「おい、大丈夫か?」


 彼が女の人を抱き上げようとしたら、その女の人は逆に亨に抱きついてきた。


「──高代さん!」


 亨はびっくりしている。


「ほ、穂波さん?」

「知り合いか? ちょっとあなた、動かない方がいい」


 ぼくも、スクーターにそれ以上爆発の危険がないことを確認して、二人の側に来た。


「た、高代さん! 大変なことがあって──」


 穂波さん、とかいう女の人──と言ってもよく見たらぼくと大して歳が変わらない。少女だ──その彼女が切迫した口調で喋りだした。特にこれといった怪我はないようだ。頭も打っていないらしい。視線がしっかりしているし、上体も揺れていない。運が良かったのだろう。しかし彼女自身は幸運どころではないようで、


「私、高代さんを探していたんです!」


 と亨にすがりつきながら絞り出すように言った。


「ち、ちょっと待ってくれ穂波さん。け、怪我とかはないのか?」


 女に免疫がないようで、亨は顔を真っ赤にしている。


「それどころじゃないんです! うちが、なにか変な連中に襲われて──」

「なんだって?! まさか昨日の連中が仕返しに?」

「わかりません! なにがなんだかわからなくって──弟ともはぐれちゃって──」

「と、とにかく離れてくれ。話ができない」

「お願い亨さん、助けてください!」

「た、助けるからさ、とにかく──」

「──ちょっと待て」


 二人をそのままに、ぼくは周囲を見回している。

 なまじ、そこそこの高級住宅街なのが災いだったようだ。ただでさえ人が出かけていることの多い昼過ぎであるし、家も離れて建っている。あんなに音がしたのに、誰も出てこない。いないか、気づいていないようだ。

 街の真ん中なのに、無人の区域みたいになってしまっていた。

 それがまずい……!


「どうした?」


 亨が訊いてきたが、ぼくは逆に少女の方に訊ねかけた。


「穂波さんとか言ったね……あなた、どうして転んだんだ?」

「え……」

「ただ急いでいただけじゃないんだろう? そう──追われていたんじゃないのか? だったら……つかまっちまったぞ!」


 ぼくはきっ、と眼を彼方かなたの十字路に向けた。

 そこからカーブを切って、次々とバイクに乗った集団がこっちへ殺到してきたのだ。


「……なにっ?!」


 亨は、突然の事態に虚を突かれたが、しかしすぐに我に返って自分にしがみついたままの顕子のことに思い至る。

 抱きつかれていると、動けない……!


「亨! 下がれ!」


 正樹が一歩前に素早く出た。

 バイクの連中は鉄パイプを振りかざして、三人の所に襲いかかってきた。

 正樹がそのおもてに立つ。無論、一撃を受けるなどできない。ただ振ってくるそれをかわすだけだ。しかしその間に亨は言われたように後退して、顕子をひっぺがすことに成功した。


「どこかに隠れていろ!」


 亨は、周辺のひっそりと静まり返っている家々を顕子に示して、自分は正樹のところに大急ぎで戻っていった。

 正樹は善戦していたようだ。奴らの手から叩き落とした鉄パイプが一本、路上に転がっていた。

 亨はそいつを拾い上げる。


「正樹!」


 亨は鉄パイプを振り回しながら、空き地に追い込まれ、走るバイクに取り囲まれてしまっている正樹の救援に駆け寄った。

 バイクが二台、輪から離れて亨の方に向かってきた。


「──来やがれっ!」


 亨は鉄パイプを両手にかまえて、ぐっ、と腰を落とした。

 その瞬間だった。


 ──どくん。


 胸ではなかった。なにか身体中の流れという流れが、一斉に脈打ったような感触だった。全身にスイッチがあって、それがすべて同時にONになったかのような、そんな感覚があった。

 そして……


(……あれ?)


 亨は急にわき上がってきた気持ちにとまどった。

 ひかれたら内臓を潰され骨は砕かれ、死ぬ危険もあるパワーで迫るバイクが迫ってきているというのに、亨はそのとき自分の眼に映るものが何なのかということばかり考えていた。


(なんだこれは……〝線〟か?)


 襲いかかる敵のことは、どこか二の次になっていた。そんなことはもうさいなことになっていたからだ。ことはわかっていた。


「──きええええいぃぃぃっっ!」


 奇声を上げて、バイクに乗った奴がパイプを振り回しながら亨に突っ込んできた。

 そして、そいつは一瞬後にはバイクから吹っ飛ばされて、地面に叩きつけられていた。

 一緒に来ていたもう一台は、このことに驚くことはできなかった。なぜなら自分もまた亨が一振りしたパイプに弾き飛ばされて同じ運命を辿たどっていたからだ。


「────?!」


 ぼくは我が眼を疑った。

 亨は今、いったい何をしたんだ?!

 パイプをふるった──それは確かだ。だがたった一振りで、同時に突っ込んでくるバイク上の攻撃者をいっぺんにぶっ飛ばしてしまうなんて……?


「な、何だぁ?」


 ぼくとやり合っていたバイクの連中も、この異常事態に動揺したようだ。ぼくを放り出して、亨の方に殺到した。

 亨は、まるで平然と、その襲来をせいがんにかまえた鉄パイプ越しに待ち受ける。


「…………!」


 ぼくはとした。

 何が起こるのか、その亨の様子を見て悟ってしまったからだ。だが──そんな馬鹿な。確かにさっき、ぼくとやり合ったときには、亨は──

 派手な音が響きわたる。だがそれは制御を失ってひっくり返り、道路を削ってガードレールや壁に激突していくバイクによるものであり、実際の、その中心で起こっていること自体は静かなものだった。

 ぶん、と一振り。

 それだけで、まるで練習されたのようにその軌跡は相手の急所に吸い込まれるように入り、たちまち弾け飛ぶ。

 次から次へと、それが決まる。相手はよけることもできない。逃げるにしても、それはとりあえず攻防を終えてからでないとできない。襲いかかっていったのは彼らなのだから、方向を変えるのは自身でやらなくてはならないのだ。その余裕などない。

 亨の動きは、がしゃがしゃと動いているバイクとその上の連中に比べると、むしろ緩慢にすら見えた。無駄な動きがないので、逆にゆっくりに見えてしまうのだ。

 だが──

 だが、そんな馬鹿な!

 さっきぼく、谷口正樹とやり合ったときには、確かに亨は剣の素人だったはずだ。あれは演技などではなかった。本当に、ろくに得物を振り回すタイプの格闘術なんか全然知らなかったはずなのだ!

 それが、どうしてこんな何十年も山奥で修行した達人みたいなことが……。