3 ④

 そう思った。だか次の瞬間、その飛び出してきた人影はいきなりまた元の方向に、まるで見えない糸に引っ張られたかのように戻ったのだ。


(──あ? な、なんだあ……?)


 そしてぽかん、としている彼の目に、さらに奇妙なものが写った。

 黒い筒のような帽子を被り、そして同じく闇の色をしたマントで身を覆った、人のようで人でないような不思議なシルエットが建物の壁面という直線にすっぱりと切り取られた夕暮れ空との境目に、と出てきたのである。

 それは何かを探すように視線をあちこちに巡らせたかと思うと、すぐに引っ込んだ。その動きは今にも落ちそうな場所で人がおっかなびっくり立っているというような迷いなど欠片かけらもなく、さながらそこに浮いていた幽霊のようでもあった。いや格好からすると、むしろそれは、死神、という形容の方が似つかわしいかも知れない。


(な、なんだありゃ……?!)


 今、一瞬だけ外に飛び出して見えた人影は、あの死神に天に連れられて行く途中の魂だったのだろうか? ……などと馬鹿みたいな連想まで浮かぶ。

 もしも彼が女の子であったなら、ここでこの辺の女子学生の間だけで広まっている奇妙な噂の主のことをすぐに思ったに違いない。それは人が身も心も最も美しいときに、それ以上醜くなる前に殺してくれる存在なのだという。黒い帽子に黒いマントで身を包んだ、そいつの名前はブギーポップという──。


「ひ、ひい……!」


 彼は怖くなって逃げ出した。足元から何かがひたひたと迫ってくるような恐怖が湧き起こってきて仕方がなかった。

 そしてこれが不運のつき始めだった。

 ただでさえ折り合いのよくなかった両親と、ささいなことですぐにカッとなってけんになってしまうことが多くなった。母親を殴ってしまい、父親に殴られるのだ。

 そしてとうとう、言葉のはずみで「こんな家なんざ出てってやる!」と言ってしまい、そして本当に家から飛び出してしまった。

 学校にも行かず、外でふらふらしていたらあっという間に持っていた二万円がなくなった。

 三平は困り果てた。今さら家には戻れない。しかし彼には泊めてくれたり金を貸してくれるような親しい友達もいなかった。


(くそったれ……!)


 になり、彼は泥棒でもしてやると偶然目に入ったアパート二階にある一室の、不用心にも鍵を閉め忘れて半開きになっていた窓から柵をよじ登って忍び込んだ。しーんとしているから、家人が留守なのはわかっていた。

 ところがその部屋の中に入ったその途端、向こうからけたたましい音がしてきた。


「──い?!」


 それはパトカーのサイレンであった。

 そんな馬鹿なと思った。なんだってこんなにタイミング良く警察が出てくるんだと思った。とんでもない不運が自分にいている、と彼が確信したのはその瞬間であり、そしてそれはまったく正しかった。パトカーは殺人犯とされた高代亨の部屋を調べるために来たものであり、そして彼が忍び込んだのはその隣に住んでいるOLの部屋だったのだ。偶然としか言いようがない。彼にはそういう巡り合わせになる理由など何一つなく、ただ一言〝運が悪い〟より他の因果関係などなかったのだ。

 彼はじっとしていれば、別にそのまま警察は隣の部屋を調べるだけで彼の所になど来なかったのだが、そんなこととは夢にも知らない三平はあわてて窓の外に飛び出した。

 そして足場の柵から足を滑らせた。

 二階から転落して、彼は頭と背中を強打した。気が遠くなりかけたが、パトカーの音が容赦なく迫ってきていたため必死で這いずり、家と家の隙間のような狭い路地に逃げ込んだ。這いずったため身体中がれて、血がだらだらと流れ出てきていたが、彼は頭ががんがん痛んでいてそのことに気がつきもしなかった。そしてとうとう、彼は路地の、無理矢理後から作られたために電信柱を囲むようになっている柵のスペースまで来て、がっくりと力つきた。強く打っていた頭蓋骨の中では脳内出血が起こっていた。彼の生命はもう、長くないのだった。


(ちくしょう……こんなことになったのは、全部あの死神野郎のせいだ……まったくついてねえ)


 かすれゆく意識のなかで、三平はそんなことをぼんやりと考えていた。


    *


「…………っ!」


 穂波顕子は、その本木三平の無惨な姿を目撃してあやうく悲鳴を上げそうになった。

 血まみれで倒れているから、だけではない。それだけなら、おそらく彼女はただ悲鳴を上げるだけで終わって、警官がすぐさまその場に駆けつけて、そして死にゆく少年を発見して、そしてすべては終わっていただろう。

 だがそうはならなかった。

 穂波顕子には、その少年の身体にべったりとへばりついている霧のようなものが見えたのである。

 それがなにか、ということは実はすぐにわかった。それがなんなのか、初めて見るくせに彼女は既に知っていた。

 それは少年の〝身体から抜けていく生命〟なのだった。身体からにじむように、あふれるようにこぼれていくそれがすべて出てしまうときが、彼の死ぬときなのだ。それがわかっていた。

 だがなんでそんなものが自分には見えるのか? ……それがわからず、そしてそのとまどいが彼女に悲鳴を上げさせなかった理由だった。


「な、なによこれ?!」


 彼女は、ここで初めて胸元の〝卵型〟に自分から問いかけをした。しかしこれに対して卵はこれまでのふざけた調子もなく、


『──とんでもねえ大当たりかよ。穂波顕子……〝生命〟が見えて、それをどうにかできる能力、ということか──こんなMPLSが存在しうるとはな……』


 と、かすれたような声を出すだけだ。


「もう!」


 どう考えていいのかわからなかったが、とにかく彼女は少年のもとにひざをついた。

 そして、霧のようなものに手を伸ばす。それは触ってみると気体ではなくゼリーのような感触がある。というのも、彼女自身の手からもその霧状と同じものがにじんでいて、それが反発し合っているので〝触る〟ことができるのだ。


「な、なんなのよこれって──」


 泣き声をあげつつ、彼女はぐいぐいとその〝生命〟を少年の身体に押し込んで戻した。なんだか肉料理で、ぶつ切りのかたまりしたごしらえのタレをすりこんでいるみたいな気がした。

 半分近くはこぼれ落ちてしまったが、とにかく彼女は少年からそれがみ出なくなるまで作業を続けた。


    *


「あの、……谷口さん」


 後ろの座席の、穂波さん、とかいうひとがハンドルを握っているぼくにおずおずと訊いてきた。


「車の運転、できるんですね……?」

「ま、当然無免許だけど。長い外国暮らしで、ちょっとね」


 師匠が面白半分に乗せてくれたのだ。中古の日本車だったので、今乗っているこれとの間にフィーリングの違いとかはない。


「すごいんですね……」

「正樹はすごい先生の一番弟子なんだよ。俺もぜひ見習おうと思っている」


 亨が、どこか誇らしげに言った。


「へえ……」


 なんか、妙に吞気な空気が流れていた。ぼくはちょっといらついて、


「……こんなこと言ってる場合じゃないな。これからどうするか」


 と強めの口調で言った。

 突然、錯乱したのか味方に銃をぶっ放してきた警官からパトカーで逃げ出したまではよかったが、さてこれからどうしようということでぼくと亨、それに穂波さんは三人で、うーん、と考えた。


「どうします?」

「警察に──つまり、まともな警察ということだが、そこに保護を求めるのが一番手っ取り早いな」


 ぼくはパトカーを運転しながら、備え付けの通信機に手を伸ばした。これでどこかと連絡が取れないか、と思って。警察に直通なら話は早いし、パトカーを無断で使われているというなら、警察も話を信じなくともすっ飛んできてくれるだろう。

 ──だが、通信機からはものすごいノイズが〝がーっ〟と聞こえてきただけであった。


「な、なんだこれ? 壊れてるのか?」