5 ③

 三平は逃げだそうとした。だがその瞬間手にしていた割り箸が、いきなり、かっ、と音を立てて断ち切られた。くうを切って飛んできた何かにられたのだ。

 わっ、と放り出す。

〝十五、十四、十三、十二──〟

 カウントが刻まれていく。

 その度に、三平の心にいちいち不安がひとつひとつ、ずん、と重さを持って生まれる。それは消える暇がない。


「ひ、ひいっ──」


 三平は意味もなく辺りをきょろきょろと見回す。しかしそれであの死神が視界に入ることはない。どこにも見えない。だが向こうは確実にこっちを射程に捉えている──

〝──九、八……〟

 びしっ、という音が耳元で聞こえた。そして熱いものがたらりと頰からあごに流れる……血だ。左の耳たぶが半分ちぎれかけて、だらん、と下がっていた。


「う……うわあああああああぁっ!」


 恐怖に絶叫した。それはこれまで体験したことのない恐怖だった。精神の底が抜けるような、自分がどこにいるのかわからなくなるほどの絶対的なおそれであった。

〝六、五、四……〟

 頭の中がぐるぐる回っている。なにひとつ考えることができない。なにをどうすればいいのかわからない。なにも形にできない。なにも成し遂げることはない──

〝三……〟

 びしっ、と右の耳たぶも斬られて血がまた吹き出す。だが三平はもうそんなことはどうでもよくなっていた。反応できなかった。

〝二……〟

 彼の頭の中には、何故かたったひとつのイメージだけが浮かんでいた。それは白くてつるつるとしていて、楕円形をしているのだった。

 たまご、だ。

 そうだ、あのたまごが──

〝一……〟

 あれのせいだ、と彼はそのときどういうわけか、その真実に思い至った。混乱のただ中で、絶対的なものとしか思えなかった恐怖を突破して意志が形を成した。


「たまごが──あれが」


 その途端、三平の中で何かがと切れる感覚があった。そして、


「──ゼロ、だ」


 耳元でささやかれた声とともに首筋に何かが触れる感覚があり、そして三平の意識はたちまち泥のような闇の中に引きずり込まれて、失せた。


    *


 それはちょっとした見物だった。

 言葉としては存在するが、実際にはあまりお目にかからないことというのは結構あるものだが、そのときの状況は正にそのようなものだった。

 何かに没頭していた人が我に返るときの表現として「き物が落ちたように」という言い方があるが、そんな劇的に元に戻るというのは日常ではあまりないだろう。余韻というか、惰性的に感覚が残っていることがほとんどだからだ。

 だが、そのときに人々に起きたのは実際にそういうことだった。


「──あれ?」

「──へっ?」


 みんな、突然に心の中に充満していた恐怖や不安がいきなり綺麗さっぱり消え去ってしまったのである。


「……どうして?」


 そもそもなんでそんなにパニックになっていたのかもよくわからない。しかしその気持ちだけがまるで波がさーっと引いたようになくなっているのだった。

 それまで人々のけんそうで耳をつんざくばかりだった街は一転して、しん、と静まり返ってしまった。

 憑き物が落ちたみたいだ、と多くの人が思ったが、しかしその彼らも実際にその通りなのだということまではなかなか思い至ることはできなかった。


「……終わったみたいだわ」


 穂波顕子は周りが平静に戻り、みんなが戸惑っている中でほっと息をついていた。


『……残念ながら、本体の野郎は殻を破れなかったみたいだな。能力が消えちまったようだ。それとも転んで頭を打ってくたばったのかな』


 エンブリオがぼやくように言った。


『あれだけの大騒ぎになればオレが壊されて死ねる確率も高かったのに、惜しいことだ』

「……そんなことはとりあえずいいわ。亨さんを探さなきゃ──」

『お? 高代さんから亨さんになったな』


 エンブリオが、ひひひ、とせせら笑う。顕子は眉を寄せたが、しかし返事はせずに、


(でも──今のが本当にこの卵形のせいだとしたら……こんなものを私はどうすればいいのだろうか?)


 と自問していた。叩き壊せばいいのだろうか? こいつが望んでいるように……。

 だがどうしてかはわからないが、そうすることに深い抵抗感が内心であるのだった。何故かは彼女にもわからないのだが……


〝顕子ちゃん、この世に存在する価値のないものなんてなんにもないよ。たとえそれがどんなにひどいものでも、存在しているということだけでそれは未来を創る可能性の一つであるということなんだ〟


 ……またキョウ兄ちゃんの言葉が頭に響く。どうしてだろう、このエンブリオに出会ってから、若くして死んだあの少年のことばかり思い出すのは……。

 彼女は頭をぶんぶんと振って、そしてパトカーが次々と向かっていったという方角目指して足を踏み出した。人々の混乱が消えたのだ、まともなタクシーをどこかで捕まえられるだろう。

 そう、彼女には知る由もないことだったが、〝カウントダウン〟がもたらした混乱は全て消えていた。

 つまり、高代亨と谷口正樹、そしてパールに攻撃を今まさに仕掛けている警官たちからも、それはまるで〝憑き物が落ちるように〟消失しているのだったが、しかしそれは決して事態を収拾するものではなく、むしろ──


    *


「…………!」


 ぼくは、撃たれたのだとすぐに悟った。

 身体がきりきりと回転しながら、地面に叩きつけられるように転倒する。しかし──そういうことがわかるということそれ自体が、大したダメージではないということだった。


(どこだ……肩か? こいつはかすっただけだ)


 痛みから、身体に受けた一撃の質を検証した。弾丸は命中していない。ただかすめた衝撃に、ちと骨にまで染みる重さがあったのだ。


「ぐっ……」


 しかし、いきなり撃ってくるとは……?

 そしてすぐに、連続する銃声がとどろく。伏せたままで、ぼくがその方向に視線を向けると、亨たちが乗っているパトカーが爆発するところだった。


「────な……?!」


 ぼくは目をむいた。亨たちの身を案じて、ではなかった。逆だ。ぼくは見たのだ──


「……!」


 亨には〝それ〟がはっきりと見えた。

 空中に何本もの〝線〟が通っていて、そしてそれは〝ここを通ると死ぬ〟ということを示す〝死線〟なのだということがわかった。

 そして彼は横の、穂波顕子に化けているパールを素早く抱き寄せると、にドアを開けて外に跳び出していた。

 背後で爆発が生じるが、亨とパールは車の隙間から吹き上がってきたその爆圧の有効範囲内にはいないので、すぐ横を炎と衝撃が走り抜けても平気で立っていて、そしてその時点では既に亨はパールを離して次の行動に出ている。

 見える〝線〟を辿っていくと、彼はまるで引き寄せられるように隠れていた警官たちの射線の死角を抜けて接近していくコースに乗っているのだった。


(……なんだと?)


 この様子を見て驚いていたのは谷口正樹だけではなかった。何よりもすぐ近くで助けられた当の本人、パールが信じられなかった。


(なんだ? 今あいつ──何をした? 私にも──)


 パールにも無論、警官隊がいきなりさかいなく発砲してくるなど予想外だった。そして亨にもわかるはずがない。だが今、亨はまるですべてを見抜いていたかのように無駄のまったくない動きで攻撃とその結果の爆発といったものをかわしきり、そしてもう反撃に移っていこうとしている──


(こ、これが──高代亨の〝能力〟なのか……?!)


 亨は途中で、工事現場の隅に転がっていたらしい鉄の棒をいつのまにか拾っている。

 そして彼は、彼の姿を見失い、身体をひそめていた物陰から出してしまっている警官に襲いかかっていった。


「──わっ?!」


 警官たちは、もはや恐怖には囚われていないので、自分たちがやってしまったことの問題性には気がついていたし、逃げ出しもしなかった。