5 ⑦
自分が弱いとののしられるのはまだ我慢できる。しかし、服の持ち主である榊原弦を侮辱されることは亨にとって〝生きていること〟そのものを罵倒されたに等しい。
「いいやイナズマ、間抜けの言いなりになることはねーぞ。どうせおまえはもうそんなヤツよりもずっと強いはずだからな。そんな時代錯誤のアナクロ野郎には唾でも吐いてやりゃあいいんだよ──」
フォルテッシモは、肩をすくめて、やれやれ、という調子で首を軽く振った。救いようがない、とでも言いたげに。
「…………!」
亨は切れた。
技も能力もへったくれもなく、フォルテッシモに打ちかかっていった。
フォルテッシモは、軽々と攻撃をかわす。
「──うおおおおおおおっ!」
亨は雄叫びをあげながら、闇雲に鉄パイプを振り回した。それでも、相手が警官程度であれば当たりもしただろう。だがその軌跡はすべて虚しく空を切るのみだ。
そして、そのうちに亨の息がぜいぜいと切れ始める。あれほど自信のあったスタミナが、意味のない動きが多すぎて遂に底をついてしまったのだ。
逆にフォルテッシモはまるで平然としている。
顔の笑みもそのままに、紙一重で攻撃を見切ってしのぎ続ける。
(さて──おまえは限界ギリギリまで来たところで、はたしてどんなものを見せてくれるのかな? イナズマよ──)
内心ではそんなことすら思っているのだった。
しかし、亨にはもはやそんなものなど残されてはいない。争う両者のうち一方が怒りに走ったとき、ほとんどの勝負事はそこで決している。先に安定を失った方が負けるのだ。亨は既にこの時点で敗北していた。これは実力の差は埋めがたいという問題だけではなかった。
そしてとうとう、亨はぶざまに脚をもつれさせてすっ転んだ。泥に、顔から突っ込んだ。
そしてここで、やっと彼ははっ、と我に返った。
だが遅すぎた。
顔を上げたとき、彼の目に入ったのはこっちを見ながら〝やれることがあるならやってみろ〟と容赦なく攻撃する意志で手をかざしているフォルテッシモの姿であった。
(……駄目か)
亨は観念した。圧倒的だった。フォルテッシモにはしょせんかなわなかったのだと冷静に心のどこかで納得していた。
しかし──現実はそうそう納得できるところで終わるものでもないし、それが負ける覚悟であったとしても、人の確信などというものが絶対であることなどほとんどないのだ。
この異常な状況でも、その原則は歴然と生きていた。そして冷徹な現実というものはもちろん──敗者や弱者により厳しいという大原則も。
亨が覚悟と共に眼をつぶりかけた、そのときにそれは起こった。
一つの影が飛び込んできたのだ。
それはこの状況の傍観者ではなかった。当事者だった。亨は忘れていたのだ。今、この泥の中で戦っていたのは自分だけではなかったのだ、ということを──。
「──亨っ!」
フォルテッシモが攻撃態勢に入ろうというそのときに、谷口正樹が間に飛び込んできたのである。
そしてあり得ないことが起こった。
亨に興味と注意を集中させていたフォルテッシモの頰に、正樹の正拳がもろに入って、その身体をぶっ飛ばしたのである。
「…………!」
亨は眼をむいた。
正樹が彼の方を振り向いて、何か言おうとする……だがそれは間に合わなかった。亨も叫ぼうとした。しかしそれもまた間に合わなかった。
次の瞬間、正樹は全身をずたずたに切り裂かれて、血をまき散らしながらその場に崩れ落ちた。
苦痛の悲鳴も何もなかった。
ただ、やられて、倒れた。
「…………!」
亨の、開けられたままの唇がわなわなと震えた。
その前に、立ち上がったフォルテッシモの影が落ちた。
「…………」
殴られた口元から血が一筋垂れているが、ダメージでも何でもないようだった。
「……この男」
フォルテッシモも、血まみれのボロ雑巾のようになって倒れている人影を見ている。
「攻撃の軌道上に立ちはだかるとは……なんという奴だ」
その声は、どことなく
「……友人のために、身の危険を省みず飛び込んでくるとはな。なんという……勇気と行動力だ」
声はだんだん震えてくる。まるで自分の行動を悔いているかのようであった。
「そして決断力のある奴……ただの人間だというのに……しかし──それにひきかえ」
ここでフォルテッシモは、ぎろり、と亨を睨みつけた。
その両眼は怒りの炎に燃えていた。彼は吐き捨てるように、
「とんだ買いかぶりだったな。この勇気ある男が命懸けで作ったチャンスに、こいつは何もしようとはしなかった……! まるで話にならん。こんな奴に少しでも期待した俺が一番の間抜けか……!」
後には亨だけが残された。
「…………」
彼はよろよろと、さっき知り合ったばかりの──だが人生でもっとも重要な出会いのひとつだと思った相手の、自分をかばおうとしたその成れの果てに這って近づいていく。
「……正樹」
彼は手を伸ばす。だが正樹の身体は動かない。そして血がその全身の傷から後から後からあふれ出していく。
「……正樹よぉ」
彼は自分が歯をがちがち鳴らしていることに気がついていなかった。まるで吹雪の中に裸でいるように寒くて寒くてしょうがないのだが、それでも……彼にはなにがなんだかわからないのだった。
そして彼は正樹の身体を抱え込むと、遂に絶叫した。
その叫びは街に虚しく響いて、そして消えていく──。