6 ①
「──はあ、はあ、はあ……!」
パールは静まり返っている街から息を切らしながらも一心不乱に逃げていた。
雨はいつのまにか上がっていて、空には夕焼けの朱がいっぱいに広がっている。
(じ、冗談じゃない! フォルテッシモなんか相手にできるか!)
既に見つかってしまったが、何故か奴はこっちを追いかけては来なかった。理由はわからないが
だが、その
パールが交差点を曲がって街から出ようとするその地点に、一台の車が停まっていたのである。
その運転席には──フォルテッシモが座って、こっちをじっと見ているのだ。先回りされていたのである。
(──し、しまった……!)
パールは思わず立ちすくんでしまった。もはや駄目か、と観念しかけた。
ところがそこで予想外のことが起こった。
「──姉ちゃん!」
と、車の助手席から身を乗り出して大声を上げる少年がいたのだ。
穂波弘だった。
ここでパールははっと気がつく……自分はまだ、穂波顕子に偽装したままだったのだ。
(す、するともしかして……)
彼女が動けないでそのまま立っていると、フォルテッシモと穂波弘の二人は車から降りてきてこっちにやってきた。
「よかったよ姉ちゃん、無事だったんだね!」
弘は顔中で喜びを表していた。演技とは思えない。本気で信じているのだ。姉が入れ替わっているという、そんな可能性のことなど考えたこともないのだろう。
(しかし……)
しかしもちろん、フォルテッシモはそういうことはとっくに承知しているはずだ。
「…………」
フォルテッシモはゆっくりとこっちに歩いてくる。
彼女はつい、
「ああ、この人はリィさんていうんだ。俺を助けてくれた人だよ」
と説明した。
「助けた……?」
ということは、彼女の味方の方は失敗して、すでに全滅させられたか撤退したかのどっちかだ。彼女は孤立していて、その方面の助けは期待できないということである。
そして弘がうなずいている間にも、フォルテッシモは近づいてくる。
なんだか、ものすごく不機嫌そうな顔をしていて、彼女のことを疑っているのかどうかよくわからない。
「顕子さん──だな?」
フォルテッシモは彼女をじろりと睨みながら囁くように言う。
「は、はい」
パールはおどおどしながら答える。半分は演技だが、半分は本気だ。本当に怖いのだ。
「あ、あなたはどういう……?」
「今、携帯ゲーム端末を持っているのか?」
「え?」
「持っているか、と訊いているんだ」
「…………」
パールは考える。
ゲーム端末? なんだそれは。いや待て。そもそもフォルテッシモが出てきた理由を考えてみるのだ。そうだ、きっとその〝ゲーム端末〟とやらがエンブリオの今の入れ物に違いない。そしてそれを本物の穂波顕子が持っているということなのだろう。
しかしもちろん、パールはそんなもの持っているはずがない──
「あ、あれですか? あれは──どこかになくしてしまって」
必死で言い訳する。ここでごまかさないと、彼女の生命は終わりだ。
「なくした? どうして」
フォルテッシモは特に苛立った様子もなく淡々と訊く。
「い、色々あったんです……バイクに乗った人たちに襲われたし、警官はいきなり撃ってくるし──たぶん転んだときに、どこかに落としたんだと思うんですけど……」
しどろもどろに返答する。その動揺は本物なので、演技しているようにはとても見えない迫真性があった。
「……なるほど。ではそのときに壊れてしまったかも知れない、と言うんだな。その可能性が高い、と」
「……たぶん」
「そもそもなんでゲーム端末を持ち歩こうと思ったんだ?」
「深い意味はなくて……なんとなく。時計代わりにもなるし、ちょっとした暇も潰せるし……」
「…………」
フォルテッシモの表情はまるで変わらない。
何を考えているのかまるで読めない。
(うううう……!)
パールは恐怖のあまり叫びだしそうになった。それを必死でこらえた。
「…………」
フォルテッシモはしばらく無言でいたかと思うと、突然急に、
「ふふっ──」
とにこやかに微笑んだ。
「いや、それならいいんだ。あれは危険物でな。叩き壊すのが一番いいんだ」
その
「と、とにかくさ姉ちゃん、ここから逃げよう! 警察に追われているんだろう? やばいんだよ」
「え? え、ええ……」
「車に乗りたまえ。安全な場所を知っている。とりあえずそこに向かおう」
(しかし──)
パールは横目でフォルテッシモを見ながら思う。
(こいつ、ほんとうに私を穂波顕子と思っているのか? それともエンブリオの入手のために、私を泳がせているだけなのか?)
あるいは、穂波顕子のことなど二の次で他の目的を優先しているのかも知れない……。
だが、だからといってパールに今その辺を詮索して対応する余裕はない。正体が大っぴらにばれたらすぐに殺されてしまうだろう。
(なんとか隙をうかがって、反撃するか逃げる機会を見つけなくては……!)
三人を乗せた車は、騒ぎの起こった地点から確実に遠くに離れていき、次の舞台へと移動していく。
*
そして本物の穂波顕子の方は──
「……な、なにこれ……?」
顕子は、警官がたくさん倒れている目の前の光景に啞然としていた。
これを亨がやったのか?
『だから言っただろう。近寄るのはやめろ、ってな』
彼女の胸元でエンブリオが皮肉たっぷりに言う。
そしてサイレンが遠くから響いてきて、たちまち接近してくる。彼女はあわてて物陰に隠れざるを得ない。どうしてこんなところに来たのか、他人に説明できないからだ。
ここには人が大勢倒れているが、死にかけている人はいないようだし……と彼女の位置からはそうとしか見えなかった。谷口正樹が倒れている場所は彼女から見て死角になっていたし、遠すぎた。
だから彼女はそのままそこから離れていってしまう。亨のことが気がかりだったが、しかし本当に亨が見境のない乱暴者だとしたら、彼女が行ってもどうにもならないだろう。信じられなかったし、信じたくはなかったが……いやだからこそ、今の彼女は亨を捜すのが怖くなっていた。
(どうするのよ、これから……?)
何も考えられない。
『これからどうするんだよ、あんたは?』
胸元の卵が訊いてくる。
「……わからないわよ」
『あんたの〝生命をあやつる〟あの能力はきっと、これからさまざまなトラブルを呼ぶぞ……早いうちに何とかした方がいい』
「わからないって──言ってるでしょ……!」
彼女はいつのまにか泣いている。
(どうしよう? どうすればいいの……?)
彼女は心の中で、
あの少年はいつだって落ち着いていて、どんな相談でもいつも的確に応えてくれたものだった。彼が今ここにいて、
「どうしたの顕子ちゃん? なにか困っているみたいだね?」
と訊いてきてくれたらどんなにいいだろう?
だが──死んでしまった者は帰ることはないし、そしてそんなことを思っている間にも現実はどんどん取り返しのつかない方向に進んでいく。
(助けてキョウ兄ちゃん……助けて……!)
そして彼女はふらふらと歩いて、その場から離れていく。
そしてこの三十分後、自宅に戻った彼女は、そこでドアの鍵が壊れて部屋は荒らされ、弟の姿がないことを発見して