7 ②

「…………」


 おりはたあやはじっと、ベッドの上で横たわったまま動かない少年、たにぐちまさを見つめている。

 正樹には各種の点滴や輸血のための管がつながれていて、胸は呼吸のために上下している。しかし──その全身に巻かれた包帯には、今もじわじわと血がにじみ出し続けていて、どうしようもない状態であった。まるで血友病のようだが、この場合血が凝固しないのでない。固まった血のかさぶたの下からも、縫い合わせた傷口の間からも血がじわじわとにじみ出し続けているのだ。まるでふさがる気配を見せない。

 そして正樹の意識も戻らない。なにか強烈なショックを受けて、気絶状態になったまま回復しないのだ。そのショックの正体もわからず、医者には手の打ちようがなかった。本人の回復を待つしかないのである。そしてそれはもう……

 だから──医者も彼に付き添いの少女がつくことに反対しなかった。本来なら面会謝絶なのだが、病院としてはもはややれることがないのである。少女は患者の恋人だという。さいまで一緒にいさせてやる、それがこの絶望的な患者と少女に対するせめてものはなむけだった。


「…………」


 綺はじっと正樹を見つめている。

 正樹はまだ呼吸をしている。それだけをずっと確認し続けているように、いつまでもいつまでも見つめ続けているのだった。


    *


〈……この警官による無差別殺人がいかなる動機によるものであったのか、県警本部やしよかつの署からは一切公式のコメントは未だ出されていません。以前よりこの警官の挙動に不審があったのかどうかも不明で──〉


 そのアナウンサーの声はラジオ機能を付けているウォークマンから無感動な響きで聞こえてくる。


「──とおるさんじゃなかったのね……」


 イヤホンを片方だけ付けているなみ顕子はへなへなと身体から力が抜けた。いや信じられなかったのだから、その通りであることが証明されたのだから喜んだ方がいいのだろうが、それでも持っていた〝もしかして……〟という疑念が罪悪感をもたらし、それ故に彼女はまず力が抜けた。


『しかし、警察に捕まってることは間違いないんじゃないのか』


 彼女の胸元から声がする。それはペンダントのように首からぶら下げられている白くて丸くて小さい家庭用ゲームの携帯端末なのだった。まるで卵のような形をしたが口を利いている。


「ラジオでは何も言っていないわよ」

『そんなもの伏せられるに決まっているだろう。一人で警官たちの暴走を食い止めた勇気ある青年、とでも紹介するのか? 警察の面目は丸つぶれだぞ』

「……犯人じゃないってわかっているんだから、すぐに出してもらえるわよきっと」


 顕子は自分に言い聞かせるように言った。

 そこは薄暗い。

 まるで古代ローマの地下墓所カタコンベのような、山の中をり抜いて通っている謎の洞窟なのだった。明らかに人為的な物であるらしいと言うのは、その床や壁に当たる面が石などが敷かれて平坦だからだ。そして、あちこちに明かり窓というか、小さな穴があいていてその光線の筋が空間に走っている。彼女はその中の通路の半端な位置に座り込んでいるが、これは電波がかろうじて入る場所がそこしかないからである。

 ここを顕子が見つけたのは、たしか彼女が中学生の頃、受験する高校の下見に来たときのことだったと思う。あれは夏だったか……彼女は何気なく歩いていて、そして山に面したところにあるその高校、県立深陽学園のすぐ近くにこんな隠れ場所があることを発見したのだ。ずっと忘れていたのだが、しかし彼女がとっさに身を隠さねばと思ったときに思いついたのはだった。

 そう──彼女は世界から身を隠さなくてはならないのだ。


「…………」


 一匹のカナブンが、彼女の足元でひっくり返ってわずかに脚を動かしている。

 寿命なのだろう。それは今にも死のうとしているのだ。

 そして──彼女の眼には、そのカナブンにまとわりついて、そして地面に垂れ落ちようとしている黒い染みのようなものが見える。他の者には見ることがかなわないそれこそがカナブンのこぼれ落ちようという生命のいわばエキス、そのヴィジョンであり、それがすべて地面に消えるときがこの虫の死ぬときなのである。


「…………」


 彼女はそれには手を出さない。やがてカナブンはそのまま動かなくなった。

 染みの方も、完全に消えている。

 だがもしも──もしも彼女が手を伸ばし、そのカナブンからエキスがこぼれるのを阻止しようとしたならば、カナブンはわずかではあったろうが生き延びることができただろう。彼女には今やそういう不思議な能力があるのだ。


『諸行無常、って感じだな。哀れなカナブンの魂よ安かれ、ってところか? へへへへ』


 胸元の卵形がへらへらと、せせら笑うように喋っている。どうやら今彼女と同調しているこいつは、彼女の目を通して世界を見ているようだった。だから彼女が感じることはこいつにもわかるのだ。

 ゲーム機の端末だが、これは決してダウンロードされたミニゲームではない。この卵形の中に封じられているエネルギー体……それが意志を持ち、彼女の精神に直接話しかけてくるのである。だから他の人にはこの〝声〟は聞こえない。エンブリオという名前のこいつは〝人の中に秘められた可能性を解放する〟という作用を持つらしい。

 そして彼女からもこの〝生命をる〟能力を引き出したのだ。

 だが彼女には実感がまるでない。すでに人間も一人、そうやって助けているが……


(しかし死のうとしている人を生かすということは本当に助けることになるのかしら……ああ何を考えているの私)


 ……それでも、これが自分の才能などというのが信じられない。まるで心の中でしっくりこないのだ。普通眠れる才能と言ったら、もう少し本人に手応えというか、そういうものがあるのではないだろうか? なんだか借り物の服を着せられているみたいなのだ。

 しかし、たとえそれが本人の内面とそぐわないからと言って、その能力は歴然と存在するのだ。なんとかそれに対応策を立てなければならない。なにしろこの能力で人を生かそうとすると、彼女自身も〝生命〟を外に出さなければならず、どうもそれは消耗を要求することのようなのだ。つまり……使いすぎれば、いやそれどころか次に使うだけで彼女は取り返しのつかないことになるかも知れないのだ。

 いくら生き物を死から救える能力とはいえ、これではほとんど役に立てることなどできない。あるいは……これは生命を救う能力などではなく、別の使い方があるのだろうか?


『だからオレを殺せばいいんだよ。そうすりゃおまえにオレのエネルギーが直接かぶって、能力の方もがっちり固定されるって寸法だ』


 エンブリオが言う。なんだかわからないが、こいつはことあるごとに自分を壊せとかそういうことを言う。


「……固定、って──じゃそれで変なことになったらどうするのよ? お化けみたいになっちゃったら?」

『まあ運命だと思ってあきらめるんだな』

「……あんた、ひょっとして私のことなんかどうでもよくて、ただ死にたいだけなんじゃないの?」

『それも一理ある』


 あっさりと言う。


「どうしてそんなに死にたいのよ?」

『オレはニセモノだからだよ』

「……にせもの? なによそれ」

『オレのエネルギー波というのは、何かのコピーなんだよ。それが何なのかオレには知る由もないがな。とにかくオレは〝自分〟ではないんだよ』

「……それが何だって言うのよ? あんたはあんたでしょう? 偽物か本物かなんてどうだっていいことじゃないの?」

『わかってねーなあ、あんた』


 エンブリオはふふん、と人間だったら鼻を鳴らす、という行為に当たるようなニュアンスの声を出す。


『オレがコピーだということは、オレと同じよーに他にもまったく同じ奴がごろごろいる可能性があるってことだよ』

「……だから何よ?」

『それで生きていると言えるか?』