7 ④

 ……共に来た仲間たちは殺されるか撤退してしまって今では彼女がこの敵地に一人きり。そして統和機構でも最強と言われるフォルテッシモのすぐ側で、いつバレるかわからない穂波顕子の演技をし続けなければならなくなるとは──だがあきらめてはいない。なんとかしてこのヘビーな状況を切り抜けて、生き延びてみせる。もうエンブリオなど知ったことか。自分が生き延びられさえすれば、何をしてもかまわない……!


「なあ、顕子さん?」


 いきなりフォルテッシモが訊いてきた。


「は、はい?」

「君は高代亨のことが好きなのか?」

「え?」


 なんという答えにくいことを訊くのだこいつは……!


「そ、それは……いえそんなことは」


 適当にごまかすしかない。


「そうなの? でもさ姉ちゃん、なんか高代さんを前にしてたとき目え輝いていたじゃん」


 弘がまぜっかえす。フォルテッシモの正体を知らないこいつはのんなものだ、とパールは内心で舌打ちした。


「そ、そんなことはないわよ!」


 精一杯の演技で照れて、怒ってみせる。背中には冷汗だ。


「まだつきあっているとかそういうところまでは行っていない訳か?」

「そ、それはその……そうです」


 それは下調べでわかっている。確かこの二人はバイトが同じというだけの関係だ。あるいは隠れて交際しているのかも知れないが、それはこいつらにはわかるまい。


「なるほど……高代亨というのはどういう男だと思う?」

「ど、どうって……」


 なことは言えない。ここは間抜けの振りをするしかあるまい。


「ええと……大きい人ですよね?」

「なんだよそれ?」


 案のじよう、弘が笑った。しかし妙に鋭いことを言うよりも笑われる方が安全だ。


「確かに背は高いな……だが精神的なものはどうかな? 奴はろくでなしなんじゃないのか?」


 急に強い口調で言われて、パールは反応に困る。


「そ、そんなことは……」

「危機が目の前に迫ったら、逃げることもできずぼけっとしているだけのなんじゃないのか、奴は?」


 はっきりと、その声には怒りというか、不機嫌なものが混じっていた。


(こいつらの間に何かあったのか? そういえば、高代亨とこいつはあのときやりあっていたが……そこで何かが?)

「いや、そんなことはねえよ!」


 ここで弘が反論した。


「高代さんは強いぜ。拳銃にもひるまないんだからさ」

「それは相手が自分よりも弱いと見極めていたからじゃないのか。どうしようもなくなると、奴はウサギ並みに縮こまるんじゃないのか」

「いやそんなことはねえよ!」


 弘は、少し会っただけの高代亨にどこか心酔しているようだ。パールたちが最初にこの穂波弘を襲おうとしたとき高代亨に撃退された、あのときの印象だろう。


(……となると、私もこの〝弟〟に追従した方がよさそうだ)


 パールは内心でうなずく。


「そ、そうですよ。高代さんはそんな人じゃありません。勇気があって、力もあって、そう、まるで」

「サムライ、か?」


 言いかけたところで先回りされたので、パールの心臓はひっくり返りそうになる。


「そ……そうです」


 あの男は、自分のことをそんな風に呼んでいたのだ。これは間違いない。


「サムライね」


 フォルテッシモは鼻先で笑う。


「知ってるか? さむらいとか騎士とかいう存在がなんだか立派なもののような気がするのは、戦乱の時代が終わった後で、そいつらの実際の姿が見えなくなってから美化されたためなんだぞ」

「え?」

「実際にそいつらが本当に戦っていた時代じゃあ、何のことはないただの暴力者だからな。日本でも武士道だのなんだの言われ始めるのは、侍が実際には戦わなくなった江戸時代からだし、ヨーロッパの騎士道の方も同様──そういう言葉が使われだすのは馬に乗った騎士なんぞでは話にならないくらいに戦争の技術が発達した後のことだ。要するに、役に立たなくなったから、せめてイメージ的なものとして残しておいてやろうという、その程度の概念なわけだな」


 意外と博識なところを見せた。一体この少年のような男は何歳なのだろうか、とパールは疑念を持つ。まさか本当にそういう時代から生きていたのだろうか──あり得ない話だが、そんな気すらした。だがこの男がいわゆる〝歴史の重み〟とかそういうものをまるでにかけていないのは確かなようだ。


「高代亨がどういうつもりで〝サムライ〟などと言っていたのかは知らん。だが奴は、そんなことを言っていた分だけ現実から逃避していたんだよ」


 言葉は理性的なのだが、その分なにか逆にそう──むきになっている、そんな言い方だった。


(高代亨とこのフォルテッシモ──両者の間に何があったというのだ?)


 そういえばフォルテッシモに狙われていたのに高代亨は生き延びている。こんなことは過去のこいつからは考えられないことだ。


(なにかその辺に、私がつけ込む隙があるかも知れぬ……)


 パールはそんなことを考えながらも、顔では好きな男を悪く言うフォルテッシモに腹を立てている恋する少女の顔つきを崩していない。

 そう、これは勝負だった。

 フォルテッシモはあるいはすでにパールの正体は知っていて、その上でただ遊んでいるに過ぎないのかも知れない。だがそれでも、いやそれだからこそ、いつか絶対にチャンスが巡ってくるはずだ……!


(そうとも……私はいつだってそうやって生き抜いてきたのだ)


 統和機構で、同タイプのマンティコアという合成人間が反逆を起こしたために彼女も処分されそうになったときもかんいつぱつで逃げることができた。あのときも今も同じだった。


(生きるということが薄氷の上を歩くに等しいことであっても、私はその上を走り抜いてやる……!)


 パールは、相手が最強のフォルテッシモで、かつ自分にはとぼけ通す演技しか手札カードのない勝負であっても、おりるつもりはさらさらなかった。


(絶対に負けない。私が生き延びれば、それが勝利だ……!)


 パールはそんなことを思いながらも、はたには、


「でも、高代さんは思いやりのある人ですよ」


 などとフォルテッシモに精一杯の抗議をする少女なのだった。


「やれやれ」


 フォルテッシモは肩をすくめて、薄く笑った。

 底の読めない、そういう笑い方だった。


    *


 そして……その問題の男は今、警察署の留置場にいた。

 寝台の上に座り込んで、左眼をつぶっている。右眼はすでにない。医者がひどく傷ついてもはや処置のしようのないそれを摘出してしまったのだ。実際それは適切な処置だった。その傷はふさがることがなく、放っておけばいつまでも血が流れ続けただろう。その傷ぐるみえぐり取れば、その後でなら治りもするのだ。包帯が巻かれてはいるが、もうそれを取ってもさほど影響のないくらいだ。


「…………」


 もっとも、それでも傷の一部はいまひとつ塞がりきっていない。どうかすると右眼のあとの、眉から頬の上にまで走っている一筋の傷から、たらっ、と血が包帯の下から流れ落ちる。そしてこのえぐり取る治療は谷口正樹には無理なのだ。損傷部が多すぎて、それをえぐっていったらそれだけで充分に〝致命傷〟になってしまうからである。

 そのことはこの男はもちろん知っていた。


「…………」


 彼は、何時間もずっと左の瞼を閉じて、闇の中にいる。

 彼にはどうすることもできない。

 だがどうにかしなくては生きていくこともできない。


「…………」


 時折、彼の身長百九十センチ、体重七十五キロの大きいが細い身体がぶるぶるぶると震える。

 そして右眼から血が、まるで涙のようにたらり、たらりと流れ落ちる。


「…………」


 だが、それでも男は、一時やっていたように絶叫して留置場の壁に頭を打ちつけるといったことは既にしなくなっている。

 静かに、じっと、心の中から何かを見つけだそうとしているかのように、ただ闇の中に座っているのだ。


「……どうだ、高代亨の様子は?」