7 ⑤

 留置場に、をした肩を保護するために腕を吊っている警官がやってきて、看守役の巡査にたずねかけた。彼は、高代亨と実際にやりあった中の一人だった。そして高代亨の処遇を決する際に〝警官に対しての殺意はなかった。正当防衛だ〟と証言した一人でもある。


「……今はおとなしくなっているんですが、なんかそれが逆に不気味ですよ。動きもしないし、こっちが差し入れた飯にも手を付けないんです。もう何時間も水一滴飲まないし、小便もしていないんですよ奴は」


 巡査はぼやくように言った。


「……まるでだんじきあらぎようをしている武芸者みたいだな」


 亨の様子を蔭から見て、警官はぼそりとつぶやいた。


「まさか、友達の後を追ってじゆんしようって言うんじゃないでしょうね?」


 巡査はあおい顔になっている。そんなまさか、とも思うのだが、しかしなんだかあの男は妙に大時代的というか、古武士のようながするのだ。やりかねない感じは充分にある。


「まだあの谷口って子は死んでないよ。助からないと決まった訳じゃない」


 警官がたしなめるように言った。


「それに……奴の顔つき、そういう〝覚悟ある者〟といった感じじゃないな。もっとなんというか──せつ詰まっている、そんな気がするな」

「落ち着いちゃいないってわけですか。でも動かないですよ?」

「……前にも似たような人を見たことがある。あれは剣道の全国大会のときだったが……優勝した人が、試合の間の待機時間中ずっとああいう感じでいたよ。何をしていたのか、と後から聞いたら、頭の中で戦いの筋道をずっと考えていたって言うんだな。相手はこう打ってくるから、自分はこう動く、とかな」

「イメージトレーニングってやつですか。……じゃあ、あの高代亨は今、誰かと戦っている、そのイメージを頭に浮かべていると?」

「わからんが、そういう気配がする。なんだか一人であそこにいるんじゃなくて、相手を前にしているみたいにぴりぴりしていやがる……」


 警官はひとりうなずいた。


「じ、じゃあその〝相手〟っていうのは誰なんです? 奴っこさんはどんな相手とやりあうつもりなんでしょうか?」


 巡査は焦りつつ訊いた。高代亨の尋常でない集中ぶりから、なんだか……とんでもないことに挑戦しているような気がしたからだ。


「……尋問しても、あれじゃ答えないだろうなあ。黙秘ですらあるまい。奴にとっては、俺たちなど大した相手じゃないんだろう、既に」


 警官は嘆息した。


「…………」


 高代亨の耳にも、その男たちのひそひそ声は届いている。聞こえないと思っているのだろうが、いや実際に普段ならば聞こえない位置で話しているのだろうが、亨には聞こえるのだ。それは声でなく、伝わってくる気配を鋭敏な感覚で言葉のように感じているだけなのかも知れないが、しかしどっちにしろそんなことはどうでもよかった。


「…………」


 どうせ、亨はそんな警官たちの〝しかし、すぐにでも出さないと色々面倒なようだぞ。あまり長いこと拘束していると、マスコミにぎつけられる〟とか言ったような話をほとんど意識していない。聞こえているが、聴いていないのだ。

 彼が、ずっと思っていることはたったひとつだった。

〝──〈それ〉をすることに果たして意味があるのか?〟

 そればかりを考えていた。

 あの、最強を名乗った男に、いまひとたびの手合わせを挑む。

 彼は、確かにそれをせずにはいられないだろう。それで死ぬことになっても、おそらくはほとんど後悔もしないに違いない。だが、それは彼の意地や誇りなどよりも遙かに重要な問題である正樹の生命を救うことになるのだろうか?

 いや、おそらくはなるまい。なるはずもない。それどころか逆に正樹の義姉であるきりなぎに余計な精神的負担を掛けるだけだろう。


(それでも、俺はをすることに意味を見出そうと言うのか?)


 ただでさえ取り返しのつかぬ失敗を犯した負け犬でその上、そんな己のことしか考えないようなごうまんなエゴイストに、さらにちようというのか──この自分は?

 恥知らずにも程がある……!


「…………」


 彼の頬に、また血がひとすじ流れ落ちる。

 進むこともできず、退くこともできず、高代亨の精神はみようの荒野をあてどなく孤独に彷徨さまよっているのだった。


    *


 隠しトンネルの中で、穂波顕子は立ち上がった。

 食事を買ってこなければならないのだ。トイレはすぐ側の公園に公衆トイレがあるから困らないが──飲むものと食べるものはさすがに山の中にはない。

 近所にコンビニがある。あそこに行くしかない。

 ここまで来たときのように、彼女は普段はかけていないファッション用の度なし眼鏡をかけて変装した。


『そんなんでバレねーもんかねえ。学校の近所のコンビニだろう? 知り合いがいるかも知れねーぞ』

「日曜日よ──生徒はいないわよ」

『部活で来ているかも』

「うちの学校は、どの部活もそんなに熱心じゃないのよ」


 顕子はナップザックを肩に歩き出した。


『しかしなあ、どだい無理があるっていうんだよ。おめーみたいなただの女の子がこんな山ん中に隠れるなんて』

「…………」

『おまえが隠れている最大の理由は、能力だけじゃないだろう? つまりはオレのせいだ』

「…………」

『人から得体の知れない力を引っぱり出すオレはどんなさいやくを世の中にまき散らすかも知れない……だから隠しておかなければ、そう思っているんだろう?』

「……だから何よ。だから〝オレを殺せばいい〟とか言わないでよ」

『……生きていてもしょうがない存在っていうのはあるんだよ』

「……そんなことをあんたが言っているうちは、意地でも殺してやらないからね」


 顕子は吐き捨てるように言うと、山を降り始めた。

 しかし──何故だろう?

 こんな風なことばかり言い合っているのに、どうしてか彼女はこのエンブリオと話すことそれ自体は決して嫌ではないし、それどころかちょっぴり──ほんのちょっぴりだけ面白さも感じるのだ。事態が穏当でなさすぎるだけで、もしこれが本当にただのゲームだったら、彼女はさぞ楽しんでいるだろう。

 何故なのか?

 まるで昔なじみの知り合いと話しているかのようだ。内容は同じことばかりで言うことはわかっているのに、それでもうんざりするばかりでなく、どこかそれが心地よいような──


『──しかし、なんだかあんたとは妙に話が進むな』


 エンブリオもそんなことを言い出した。


『サイドワインダーだって、こんなにオレと話はしなかったぜ』

「女の子はおしゃべりなのよ。話し相手がいれば、半分は相手が誰だっていいんだわ」


 そんなことを言うが、顕子自身も不思議がってはいるのだ。

 彼女は卵を胸に下げたまま、コンビニにこそこそと入っていった。


「黙ってなさいよ。あんたの声が誰かに聞こえたら大変なんだからね」

『へいへい。しかしそんなに都合よくオレの声が聞こえる奴がごろごろしていたりはしねーよ』

「だから黙っていろって言うのよ……!」


 彼女はちょっときつい調子で言い、そしてあわてて周囲を見回す。

 コンビニには他に客はなく、店員も一人が離れたレジであくびをしているだけだ。ほっとして彼女は息を吐いた。

 そのときである。


「──すみません」


 といきなり背後で声がした。

 びっくりして振り向くと、そこに一人の女が立っていた。

 客はいなかったのではない。すぐ後ろにいたのだ。ただ存在感が希薄すぎて気がつかなかったのである。


「ちょっとひとりごと言っちゃってたみたいですね。うるさかったですか」


 女は静かに言った。どうやら〝黙っていろ〟というのを自分に言ったのだと勘違いしているらしい。

 ということはエンブリオの声の方は聞こえていないと言うことだ。それは一安心だったが、しかし顕子には安心どころではないものが見えていた。


(こ、このひと──)


 女の背中から肩にかけて、黒っぽい影がぼんやりと貼りついて見える。それは彼女にしか見えぬ〝こぼれ落ちる生命〟のヴィジョンだ。しかし別にこの女性は怪我をしているわけでもないし、病気でもなさそうである。それなのにこんなものが見えるということは……。


(この人は──近いうちに死ぬ……)


 それが今、彼女に見えているということだった。