8 ①

 かきざきみなは半年前に仕事を辞めて、今は実家からの仕送りと失業保険でアパートに一人暮らしを続けている。

 仕事を辞めた理由は〝一身上の都合〟でになったわけではない。彼女が辞めた理由は上司も一緒に昼食を食べたりしていた同僚たちも知らない。

 それは実に女性が仕事を辞めるにあたっては最も陳腐な理由のひとつ──男がらみだった。妊娠したのである。

 だがその子供はお腹が大きくなる前に流れてしまった。以来彼女はぼうぜんとして日々を過ごしている。日課と言えば、決して広くないアパートの中を毎日意味もなく掃除して、しかし料理などはせずにコンビニエンスストアに弁当などの食事の買い出しに行って、それを食べて、寝る──そんな単調なことを繰り返している。新しい仕事を見つけるとか、あるいは親元に帰るとかした方がいいのだろうが、どうも彼女は何もかもが面倒くさくて、そういうことを全然考えられないのだ。

 そんなある日、彼女はいつものようにコンビニに買い出しに出た。


「あら、あの歯磨きなくなってる……」


 彼女は陳列棚を見ながらぶつぶつとつぶやいた。このところ誰とも会わず、誰とも話していないうちにひとりごとの癖がいつのまにかついていた。もっともささやくような小声なので、ほとんど他人には聞こえない。


「しかたないわ……こっちのにしよう」


 と彼女が商品を手に取ったそのときである。


「だから黙れって言うのよ!」


 といきなり後ろで声がした。びっくりして振り向くと、そこには一人の女子高生とおぼしき少女が立っていた。


「すみません」


 彼女が謝ると、少女はこっちを向いた。

 なんだか蒼い顔をしている。

 なおも皆代が謝ると、少女ははっと我に返ったように、


「い、いいえ。そんな……ごめんなさい、あなたに言ったんじゃないんです」


 少女の方から謝ってきた。


「……?」


 皆代はきょとんとした。そこに少女がなおも、


「え、えとその……あの!」


 と何かを話しかけてこようとした。でも言葉にならないようで、口元をあうあうと震わせている。


「私になにか?」


 皆代は訊き返す。


「え、えーとその……だ、大丈夫ですか?!」


 急に、とんちんかんなことを言われた。


「……は?」

「あ、あなたその……えとその、た、大変なことがあるんじゃないですか?」


 少女は唐突に言い出す。皆代は目を丸くした。


「あの……?」

「あ、あるはずなんです! あなたはこのままだと──いえその、なんて言ったらいいのかよくわかんないんですけど──その、危ないんです!」


 少女の眼は真剣で、切迫感があった。いわゆる宗教の勧誘のように、なんだか奇妙な自信と余裕を持ってこっちをどこかで馬鹿にしているような、ああいう雰囲気はかけらもない。

 なんとなく──

 なんとなく〝まるで少し前の自分みたいだ〟とかそんなようなことを思った。

 とりあえず、彼女を導いてコンビニの外に出る。店内では話をしにくいからだ。


「えーと、あなた、お名前は──」


 近くの公園のベンチで、皆代は少女に訊ねた。


「穂波顕子って言います。──あ」


 名乗った後で、彼女はしまったという顔をした。名前を知られてはいけなかったのだろうか?


「穂波さん? 私の、何が危ないのかしら」

「いえそれはその……えーと」

「あなた、私を知っているの? 私は覚えがないけど」

「いえ、知らないんですけど、初めてお会いしたんですけど、その……」


 しどろもどろだ。さっぱり要領を得ない。しょうがないので、皆代の方から名乗って、彼女の方から色々訊いてみた。

 顕子はやはり女子高生だという。そこの深陽学園の生徒のようだ。それでここにいるのかと思ったのだが、その辺はどうもはっきりしたことは言わない。

 要するに、なんで彼女が皆代に声をかけなくてはならないのか理由がまったくわからないのである。


「……さっき、変なことを言っていたわね。私のことを〝大丈夫ですか〟とかなんとか」

「は、はい」

「私の……なにが大丈夫じゃないの」

「そ、その……それが、い」

「い?」

「い──生命が」


 顕子は言いにくそうに、しかしはっきりとそう言った。

 その途端に皆代の顔が、ぎしっ、とこわった。


 彼からプロポーズを受けたのは、彼女が妊娠していると自分で気がついて、そのことを伝えるべきかどうかと悩みだしたその日のことだった。彼女は泣いてしまった。


「ばかだなあ」


 彼はそう言って笑った。彼女はそれでも笑うことはできず、涙が止まらなかった。

 だがその、たったの一週間後のことである。彼があっけなく死んでしまった。つまらない、ごくありふれた交通事故だった。交差点を横断していたところで、いきなり曲がってきた信号無視の車にかれたのだ。その車もハンドルを切りそこないコンクリートべいに激突、運転手は即死した。恨みのぶつけるところはどこにもなかった。

 彼女は、よく考えてみると自分と彼のことを知っている者が誰もいないことにそのとき気がついた。同じ会社の社員同士で、社内恋愛が禁じられていたので内緒にしていたのだ。お互いの両親に紹介しようとしていたが、その連絡もまだだった。

 そして彼女は、その胎内で生まれつつあった生命も失った。それが起きたときは、まさかそれがそうだとは思わなかった。だが医者は首を横に振って「流産しました」と告げたのだ。


「まだ胚の状態だったので、それほどの症状が出なかっただけです。もう──あなたのお腹に赤ちゃんはいません」


 彼女は、その言葉にどう反応していいのかよくわからなかった。

 要するに、何もかもが〝なかったこと〟になった訳だな、と納得したのは会社を辞めてからだった。会社にはいられなかった。別に彼とのことを勘づかれたとかそういうことではない。ただ、もうそこにはいられなかった。彼がいなくとも何ということもなくただ進められるだけの仕事に、もうついていけなかっただけだった。

 しかし、別に仕事を辞めたからと言って生活をしなくてすむわけでもないし、放っておけば部屋にゴミもたまっていく。彼女はぼんやりとしながらも、そういうものを片づけながら日々を過ごしている。

 何も考えることなく、ただ生きているのだ。そこにはおそらく理由などない。そういうものなのだろう。

 だが──だが、今。

 今この、初めて会ったばかりの少女はその彼女の生命が危ないのだという。

 どうして?

 どうして私の生命などが問題になるのだろう?


「生命……」


 その単語を聞いたとたんに、皆代の様子がなんだか変わった。妙に焦点があっていないというか、ぼんやりとした顔つきになっている。


「そう……なんです。変なこと言っているみたいですが」


 顕子は頭を振りながら、言葉を必死で探す。どうやって説明すればいいのかまるでわからないが、なんとかして伝えなくてはならないのだ。


「生命って……それ、どういう意味?」


 皆代の顔色が悪い。紙のように白くなっている。


「生きている理由、とか──そういうことが言いたいの?」

「い、いやなんていうか。あなたに〝死〟が見えるんです。いやそうじゃなくて──」


 顕子は、日常の言葉という奴は、なんとモノを伝えるのに適さないのだろうと焦っていた。肝心のことを言おうとすると、どうしても変な言い方になってしまう。なんという不自由さだ。いったいこれまで自分はこんな融通の利かぬもので、どうやって他人と意志を通わせていたのだろうか?

 しかし顕子が言葉に詰まっている間に、皆代の方が先に喋りだした。


「理由──そんなものがあるの?」


 押し殺したような声だ。


「そんなものがあるって、あなたなんかに言い切ることができるの?」

「え?」


 強い声に、顕子は戸惑った。彼女は知らなかった。皆代の心の中で、ずっと隠されていて、そして押されるのを待っていた〝スイッチ〟を自分が押してしまったのだということを。