8 ②
「どうして今、まだ自分が生きているのか──そんなことが誰にわかるって言うのよ!」
突然に爆発した。
(な、なに?)
顕子が混乱したそこに、エンブリオが口を挟んできた。
『人の心だよ』
(え? なんのことよ?)
『人の心は時限爆弾のようなもの……自分でも知らないうちに、爆発する時をじっと待っている……こいつも、おそらくは自分が〝死んでもいい〟と思えるそのときをずっと待っていたに違いない』
(な、なんですって? そ、それじゃあ……)
彼女が他人には聞こえぬ会話をしている間にも、皆代は言葉を吐き出している。
「わ、私は……私はなんで生きているの? あの人も死んで、お腹に赤ちゃんももういなくて、それでも私だけが生きている理由というのは……いったい何なのよ!」
彼女は、ずっとそのことを考えないようにしてきた。考えることに耐えられなかったということもあるし──人間の精神というのは、自動的に体力の問題から思考内容にセーブがかかる──そのことを不用意に考えてしまって、いざというときの決意が鈍るのを本能的に避けていたのだ。
決意や行動にとっての最大の障害とは、実は〝馴れ〟である。どんな切実なことであっても〝いつかやる〟と思い続けていると、いつのまにかどうでもよくなってしまうものだ。彼女はそれを無意識に知っていた。だからそのことは考えないようにしていた。
だが、どこかでもう覚悟は終わっていた。だから一人暮らしであっても常に部屋は
彼女がこの世からいついなくなってもいいような、そのための準備はとっくに終わっていたのだ。
それがいつ来るのか、彼女自身にもわかってはいなかった。あるいは車の走る路上にふらりと倒れかかることかも知れない。駅のホームから転落することかも知れない。ビルの屋上でフェンスを乗り越えてしまうことかも知れない。
それを発作的と言えばそうなのだろう。だが実際にはそれはずっと起こるそのときを待ち続けて、そして……
「わ、私は私は……」
……だが、彼女はそのことに気がついてしまった。
「私は……私も一緒に死にたかったんだわ……!」
それだけを言うと、彼女の身体は前のめりに倒れ込んだ。自分の膝に額を押しつけて、彼女は泣いていた。
「…………」
顕子はどうしていいのかわからない。
事情は、なんとなく今の一連の言葉から推測がつく。この人はとても大切な人を失ってしまったショックから、無意識のうちでは跡を追って死ぬ気でいたのだ。それを顕子が指摘してしまったのである。
『で、どうする気なんだよ』
エンブリオがまた口を挟んできた。
(ど、どうするって言ったって……)
そんなことがわかるはずがないではないか。こっちはただの小娘なのだ。大人の女の人が死ぬ気でいるのに何が言えるというのだ。
「あの……皆代さん」
しかし、それでも顕子はなんとか声を絞り出す。何かを言わなくてはいけない。このまま放っておいたら、それこそ道路に飛び出して自殺しかねない。何しろ彼女からはもう半分〝死〟が外にはみだしているのである。
「あなたに何があったのか、私は知らないし、そしてきっと詳しい話を聞いてもわからないでしょう。でも……」
彼女はすう、と息を一つ吸い込んだ。
「でもあなたが死ななければならないほどの苦痛を味わっているのはわかるわ。これは決して
震えそうになる声を必死で絞り出す。
「だから……だから逆に言わせてもらうわ。あなたは、死んだ人たちはあなたにひどいことをしたから、それに
「……」
皆代の肩がぴくっ、と震えた。
「あなたを置いて、勝手に先に死んでしまうなんてひどい、あんまりだ、そう思っているから……だから死にたいの? その人たちは間違ってもあなたに死んで欲しいなんて思っていないはずなのに、いやだからこそ、あなたはその人たちに〝ざまあみろ〟と言うために、それで死にたいと思っている──私にはそうとしか思えない」
「…………」
皆代は応えない。
「だったら、その人たちがあなたに会ったことも、いいえ、たとえまだ生まれていなくて会うことができなかったとしても、えと、その〝生まれようとした気持ち〟も……そういうものは全部、その、あなたが〝死んでやる〟って決めたことで──本当に無駄になってしまうわよ」
顕子の声は、ところどころほとんど棒読みの下手くそな
「…………」
皆代は動かない。
「生きていることというのは……きっと、その、本当は決して楽しいことではないんだわ。それは辛いことの方が多くて、だから死んでしまえるならその方がむしろ楽だということも確かにそうなんだわ。でも……でも少なくとも、あなたには〝一度は生まれようとした生命〟を悲しむという心があるのだから、それだけで、その……」
また顕子は言葉に詰まる。しかし彼女はすぐに続けた。
「その悲しみに押し
彼女は言い切ると、ごくっ、と
「…………」
皆代は相変わらず伏せたまま硬直している。
だがしばらくして、その肩が小刻みに震えだした。
「……うう」
そして、声が
「……ううう、う──」
それまでの泣き方とは違って、ほとんど
「うううう……!」
そして彼女は、だん、と足で地面に踏みつけた。
何度も何度も、まるでだだっ子のようにうーうー呻いて、
泣きわめいていた。
悔しくて悔しくてたまらない──そういう暴れ方だった。悲しみはちっとも減ってはいないし、そしておそらくこれからも薄れることはあっても消えることはないのだろう。しかし──なぜ悔しいのか、その理由はすなわち、自分の気持ちを断念しなければならないという、そういう
そして彼女が真っ赤に泣きはらした顔を上げたとき、そこにはもう穂波顕子の姿はなかった。
「──はあ、はあ、はあ……!」
走って逃げてきた穂波顕子は、洞窟の中にへたりこんだ。
『しかし……名演説だったぜ』
エンブリオが話しかけてきた。
『おまえにあんなことが言えるとはな……いや正直、オレは』
「うるさいわよ!」
急に顕子は怒鳴った。
「冗談じゃないわよ! こんな、こんな……こんな能力はもうたくさんだわ!」
彼女もまた泣いていた。
「重すぎるわよ! 人の〝死〟なんてそんなものは私には無理だわ! かんべんしてよ!」
顔をくしゃくしゃにして、彼女は何度も何度も首を振る。
「あ、あんなものがいちいち見えるわけ? あんなことをいちいち考えていなきゃならないわけ? そんなことできるわけないわよ!」
そこにいるのは、ごく普通の少女だった。さっきまでの立派な言葉を
そう、そもそもああいう言葉すら彼女自身のものではない。あれは──どこだったか、誰だったか、とにかく彼女と同年代の、他の少女が言っていたような言葉をそのまま借りたのだ。ただし──その少女はその、たしか──よく思い出せない。