8 ③

 それにキョウ兄ちゃんだ。あの子が生きていたら、あんなようなことを言ったのではないか。しかし彼も既に死んでいるのだ。彼女が死のうとしている人に言うべきことなど本当は何もないのだ。今の人は、あれはあの人が死んだ人に〝愛されていた〟という確信があったからああいうことが言えただけで、そうそう世界の人は皆──あんなに運が良い訳ではないのだ。

 あれはなのだ──そうでない状況にそうぐうしたら、そのとき自分はどうすればいいのだ?


「無理よ、かんべんしてよ、助けてよ……」


 泣きじゃくりながら、顕子はべったりと腰を落として座り込んでしまっている。


「……助けて欲しいのか?」


 エンブリオが話しかけてきた。


『それなら──』

「殺してくれ、なら聞き飽きたわよ!」


 悲鳴のように言う。だがこれにエンブリオは平然とした声で答えた。


『高代亨なら、おまえの助けになるのか?』

「……え?」

『あの男と会えば、おまえのその苦しみも少しは減るのか?』

「……どういう意味よ。あ、あんた……亨さんの居場所がわかるの……?」

『……はっきりとは言えないが、もしかしたらあいつは──〝呼ぶ〟かも知れない』



    *


「釈放だ」


 看守がそう言ってきた。


「…………」


 しかし高代亨は動かない。

 眼を閉じ、じっと座り込んだままだ。


「……で、出ろって言ってるんだ!」


 看守は、この間こいつが暴れて壁に頭を打ちつけたときに止めようとして引っ張り回された一人だった。だから手を出すのがちょっと怖い。


「…………」


 亨は何かを考え込んでいるようで、やはり腰を上げようとはしない。


「は、早くしろ! 身元引受人が来ているんだぞ!」


 看守のあせった声に、亨の肩がびくりと震えた。彼に身内はいない。だから来る者がいるとすれば、それは今回の事件の関係者ぐらいしか考えられない。

 そして左眼を開ける。暗い房内であり、そこには何の光も映っていない。


「……霧間さんか?」


 ぼそりと呟いた。だがこの言葉に看守は首を振った。


てらつきとかいう男だ。おまえと同い年ぐらいだよ」

「寺月……?」


 聞き覚えのない名だ。


「寺月きよういちろう、と名簿には書いてある。ほら早く出るんだ!」


 やっと亨は腰を上げて、大きくて細い身体をろうの外に出した。

 署内を先導されて歩きながら、しかしやはり寺月恭一郎なる男のことはまったく思い当たらない。

 そしてその部屋についたとき、亨の眼がその男をとらえた。

 かすかに息をむ。


「──よお」


 彼の姿を認めて手を上げてきた、そいつは確かに若い男だ。だが──


「……」


 そいつのことなら、亨は知っていた。


    *


「さて、なんか食うかい?」


 身元引受人のその男は、警察署を出るとその足でファミリーレストランに亨を連れてきた。近くにもっといい店があるのか、客はほとんどいない。男がメニューを開いたりするその手に絹の手袋をしているのに亨は気がついた。


「……話は何だ、ばらけんろうさん」


 亨は静かに言った。

 すると男はニヤリと笑った。めいを使ったことには何のやましさもなかったようだ。


「やはり知っていたか」

「霧間さんのところで、正樹の写真を見せてもらったときに、あんたも写っていた」

「なるほどな。それじゃ話は早い」


 健太郎はうなずいた。


「おれは凪の友達だ。もちろん正樹とも親しい。少なくともおたくよりはつきあいは長いな。凪は今、行方不明の穂波姉弟を必死で探している。だからおれがおたくの所に来た」

「……正樹の容体は?」

「悪い」


 健太郎はかんぱつ入れずに言った。亨は返事ができず、押し黙る。健太郎もそれ以上何も言わない。

 しばらく沈黙が落ちている間に、ウエイトレスが注文を取りに来た。健太郎はオレンジジュースを二つ、亨に訊きもせずに注文した。

 やがてそれが運ばれてくると、健太郎が「ふう」と息を吐いた。


「さて……話をする前に、おたくが何ができるのか、おれとしては確認しとかなきゃならない」

「……?」


 亨は顔を上げて健太郎を見た。


「おたくは何ができる?」


 健太郎は平然と言う。


「…………」


 亨は少しのあいだ無言だったが、やがておやの入ったグラスを手に取ると、それを一気に飲んだ。

 空になったグラスをテーブルに置くと、その上を人差し指でちょい、と叩いた。グラスはくるくると回りだして、やがてまっぷたつになってテーブルの上に転がる。


「…………」


 そして亨はその二つになったグラスを手に取ると、合わせて、そしてオレンジジュースについてきたストローを使って健太郎のお冷やから水を一滴吸い上げると、それをグラスの切断面に垂らした。

 そのグラスを、健太郎に渡す。


「ほお……」


 健太郎はそれをいじり回すが、確かに二つに割れているはずのグラスは水の表面張力によってぴたりとくっついて離れない。切断面が余りにもなめらかなので、ちょうど二枚のガラス板を水でくっつけられるのと同じように接着されてしまったのだ。


「どういう理屈だ?」

「俺にはグラスに、ここを叩けば割れる、という線が見える。そこを打った」


 淡々と言った。


「なるほど……面白い能力だな」


 健太郎はグラスでテーブルをこんこんと叩いたりするが、グラスはびくともしない。もしかすると、店の者が水洗いをし続ければ接着剤たる水がいつまでも乾燥せず、ずっとこのままなのかも知れない。


「要するに〝急所を見つけてそれを攻撃できる〟というわけだな。戦闘能力としては充分だ」

「……俺に何をしろというんだ?」

「おたく、自分がやりあった相手のことを知っているか?」


 訊かれても健太郎は答えず、逆に訊き返してきた。


「おまえがやられた相手──あの〝フォルテッシモ〟とかいう奴は、どうも統和機構でも特別な位置にいるらしい……おれが調べた限りでは、どっちかというと味方扱いされていないんじゃないかという気すらする」

「……それが?」


 亨は健太郎の眼を見つめているが、健太郎は彼と眼を合わせない。


「統和機構は、奴を扱いかねている……そういうことらしいんだよな、これが。ならば奴を何らかの形で、任務を放り出させて、暴走させることができるなら、これは統和機構の尻尾しつぽつかまえるのに絶好のチャンスということになる──隙ができるはずだ。そこをついてデータを集めるだけ集める」

「……何が言いたいんだ?」

「凪は──」


 健太郎は、やはり直接亨の問いには答えない。


「凪のやつは、いつか必ず統和機構と正面からぶつかる。これはもう避けられないことだ。だからそのときのために、こっちとしては相手のことをできるだけ知っておかなくてはならないんだよ。凪本人は、まだ統和機構のことをほとんど知らないからな……」


 健太郎はため息をついた。


「知らせるべきかどうかも、おれにはまだわからん。だがおれとしてはできるだけのことをしておかなきゃならないんだよ」

「……あんた、霧間さんのなんなんだ?」

「相棒志願者さ。いや……もっと正確に言うなら、かつて助けてもらったことがある〝恩人〟だよ、おれにとって凪はな」

「…………」


 亨は眼を伏せた。


「……つまり、戦え、というのか? 俺にもう一度──あのフォルテッシモと?」

「凪には内緒でな。あいつが知ったら、絶対に止めるからな。なにしろ勝ち目がほぼないんだからな」

「……それは知っている」

「ならば結構。おたくに都合のいい場所をこっちでセッティングしてやる。向こうを呼び出す方法も用意してある。おたくはただ、奴との戦いに集中すればいい」


 しれっとした態度で、健太郎は言う。しかしそれは要するに亨に〝死ね〟と言っているのと同じことだった。


「……命に代えても俺に正樹のかたきを討て、と言うのか、あんたは?」