8 ④
亨が言うと、健太郎は急にジュースのグラスを乱暴に掴み、それを一気にあおった。
「──ふう」
息を吐いて、グラスを置くと、彼は沈んだ声で言い始める。
「知ってるだろう、織機綺ちゃん。あの子よ──泣かねーんだよ」
「え……」
「大好きな正樹が死線をさまよっているっていうのに、涙一つ、苦しそうな顔ひとつしねーんだよ、あの子は……ただ、じっとあいつの側で見守り続けているんだよ、昼も夜もずーっと、だ」
「…………」
「とてもじゃないが、おれも凪もその場にいることができねー……いたたまれなくて、どうしようもねえ。……ええ、わかるか亨さんよ?」
健太郎は、初めて亨の顔をまともに見た。そのとき亨は、確かにこの男は正樹をひどい目に合わせる
「正樹のために戦っているのは、おれやおたくなんかじゃねーんだよ。織機綺、彼女がそれをやっているんだ……!」
震える声で、押し出すように言う。
「おれたちにはもう、何もできることはねーんだよ。だから……だから仕方がない、おれみたいなハンパヤローが、せめてこの状況を利用して、凪の未来に役立てるようにするしかないんだ……!」
健太郎の
「…………」
亨は無言だ。
健太郎は一枚のキャッシュカードを出すと、テーブルの上に放った。
「そいつは違法品だ。ひとつの店でしか引き出せないが、全部で二百万ぐらいまでなら引っ張れる。無人の引き出し口で、カメラから顔を
「…………」
亨はカードを特に見ない。おそらくそれは〝報酬〟というよりも〝支度金〟ということなのだろう。受け取れば、この仕事を引き受けたと見なされる訳だ。
だがそれでも、亨は別にそのカードを見ない。
ただ、自分の内側を見つめているように、その
「……やるのか、やらないのか、どっちなんだ……?」
じろっ、と
亨は訊き返す。
「……どうして、あんたは俺の所に来たんだ?」
「あ?」
「俺が……あんたの提案を呑むつもりなんかなかったら、どうするつもりなんだ?」
「そうするのか?」
「……そういうことを訊いているんじゃない。なんであんたは俺なんかを、そう……信用して、
亨は真剣な表情で訊いた。だが健太郎は首を横に振った。
「おたくなんか全然信じちゃいねーよ、残念ながらな。ただ……」
「……?」
「正樹も凪も、おたくのことを信じた。だからおれとしては、おたくを信じるという立場に立つしかねえ。それで裏切られたら、それはそれでやむを得ない」
肩をすくめた。
「…………」
この目の前の、羽原健太郎という男は亨の理解を超えていた。何を考えているのかまるでわからない。だが、ひとつだけはっきりしていることがあった。
もしも亨が〝そんなことできるか〟と言っても、こいつはそれはそれで、別の作戦を考えるだろう。そういうところには抜け目のなさそうなタイプだった。
そして、もうひとつ──
「……霧間さんには、本当に内緒にしておくんだな」
亨は念を押した。
「知られたら、おれが絶交されかねないからな」
健太郎はあっさりそう言った。
亨はうなずくと、クレジットカードを手に取った。
契約が成立したのだ。
「場所を用意できると言ったな。どういう所から選べるんだ?」
この問いに、健太郎は手持ちの
「その中から好きな所を取りな」
そこには色々な建物のリストが書いてあった。どれもこれも大きなビルや特殊な目的のために建てられたと思しき大型建築ばかりである。そしてそれらの横には、不思議なメモがついていた。
その内容は──それを読みながら、亨はもっともな疑問を口にする。
「何であんたがこんなことを知っている? こいつらは一体なんだ?」
「そいつは遺産だ。ある名もなき男のな」
健太郎は静かに言う。
「おれには、ちょっとしたことでその手がかりを掴むきっかけがあった。それであれこれ調べてみたら、あるわあるわ、そういう建物がずらずら出てきた。それでチェックしていたんだが──」
彼はため息をつく。
「よく考えてみたら、いや考えなくてもそうなんだが、当然そういうチェックは統和機構もしているはずなんでな──それなのに放ったらかしにされているってのは、つまりはこいつらが〝使われるのを待っている〟
ニヤリと笑う。
「今回は、その〝罠〟ってところが逆に利用できる。向こうにチェックされなきや、こっちの〝相手を混乱させる〟役には立たないからな」
「…………」
亨には健太郎の話の半分も理解できない。なにやらこの男は過去に、すでに何者かと何度か戦っているらしい。この情報は、その副産物なのだ。
しかしこんなことに首を突っ込んでいるということは……
「…………」
亨は、あらためて健太郎の手を見る。そこには絹の手袋がはまっている。つまり……指紋を残さないようにしているということだ。この、どこにでもあるコピー用紙に、ありふれた字体でプリントされた紙切れにも、彼は直接触っていないに違いない。
「そいつは燃やしてくれ」
考えていることを悟られたのだろう、健太郎はそんなことを言ってきた。
「…………」
亨の目はまた書類に戻る。
そして、そのうちのひとつを見て隻眼をすっ、と細めた。
「──こいつがいい」
と健太郎に示す。
「ん?」
健太郎はそれを見て眉を寄せた。
「なんだって? これはおれの今の言葉の
「こいつが最適だ」
亨は静かに言う。そこには冗談の匂いはない。
「──なるほど。まあおたくがそう言うんなら、そうなんだろうな。しかしなんだ、もしも万が一、ここまで準備があればもしかしてフォルテッシモを〝事故〟で巻き添えにできるって考えているなら、そいつは無駄だと思うぜ」
「わかっている」
亨は平然と首を縦に振る。
「……ま、いいけどよ。それじゃあ場所はここで、と。ところで……」
健太郎は懐から携帯電話を取り出した。
「おたくとフォルテッシモ──二人の間でだけ通じる暗号みたいなものはあるか?」
「?」
「おたくら話をしているだろう? そのときに、なんかこう、キーワードみたいなものはなかったか? 他の者では、それがおまえとはわからないが、フォルテッシモにはおまえだとすぐにわかるような、そういう言葉が」
健太郎の言葉に、亨はしばらく無言だったが、すぐに、
「……くっくっく」
とおかしそうに笑いはじめた。
「何がおかしい?」
「いや──羽原さん、あんたは結局は、俺のことなんかどうでもいいんだな?」
亨はすっかりくだけたものの言い方に
「俺が戦おうが、逃げ出そうが、そんなことはどうでもいいんだ。要するにあんたとしては、フォルテッシモが何者かの挑戦を受けた、そういう事実がありさえすれば良くて、そのためのキーワードを聞き出すことが第一の目的なんだろう?」
「…………」
「いや、妙だとは思ったんだよ。そんなに簡単に、大金や決闘の場所まで用意して、俺に戦う気が本当にあると信じているはずがないってな。普通だったら絶対にビビッて二度と戦おうなんて思わないもんな。だがプライドって言うか、そういうものならあるだろう。口だけなら戦うって、誰だって言う。金も欲しいだろうしな。だから相手がどんな奴であれ、目的は達せられるんだ。へへへ、考えたもんだなあ?」