8 ⑤

「──だから何だ?」


 健太郎は、この亨のいきなりの多弁ぶりに少し戸惑っているようだ。


「いやいや、心配するなよ。キーワードだろう? あるとも。フォルテッシモの奴の方から言ってきた言葉が確かにある。〝イナズマ〟だ。それで奴にだけ理解できる」

「イナズマ? それは日本語での意味でいいのか」

「さてな。だが奴には確かに通じるぜ」


 亨はニヤリと笑った。


「……よかろう。信じよう。イナズマ、ね……アルファベットで書いてもわかるのか?」

「問題ないだろう。ますます暗号めいていいんじゃないか」


 亨はにやにやしながら言う。


「ま、ここまでぶっちゃけちまったんだから、あんたは当然、決闘のその場所に確認になんか来ないよな? 危険だもんなあ──」


 まったく信用できない、うわついたものの言い方である。

 そう──亨にはわかっていた。谷口正樹の姉、霧間凪がこれからどうなるかはわからない。しかしそのときにはこの羽原健太郎の助けが必要なのだと。こんなことで、つまらない負い目を彼が持っていることはないのだ。

 戦うのは、自分が勝手にやることなのである。誰の命令でもない。自分が、ただ個人の願望を果たすための独りよがりな行為なのだ。

 だから──ここで変な仲間意識を持たれては困るのだ。人の情けは、切らなくてはならない──。


「…………」


 健太郎は、携帯電話のボタンを押して、何やら記号入力をしている。

 そして亨にそれを手渡した。


「発信ボタンを押せば、メッセージが発信される。押したらそいつは捨てろ」

「へいへい。押すだけでいいんだな?」

「ここでは押すなよ。最低でもここから一キロは離れてからにしろ。探知はできないと思うが、用心に越したことはないからな」

「ははっ、ボタンひとつで二百万か」


 亨はすっかり軽薄な態度で、電話を受け取った。


「日付と時刻は、その書類に書いてある通りだ」

「へへへ。決闘の約束なんて初めてだよ。すっぽかすのもな。おっと、これは言っちゃまずいか」


 亨は書類をポケットに押し込んだ。

 そして立ち上がろうとする。


「じゃあな。二度と会わねーだろうな俺たち」

「だろうな。……ああ、ちょっと待て」


 健太郎はポケットに手を入れて、ひとつの鍵を取り出した。


「こいつも持って行け。地下鉄駅の、東口の大型コインロッカーだ」


 鍵を受け取って、亨は眉を寄せた。


「中身は何だ?」

「……法律違反のオマケだ。銃刀法違反の、な。ゴルフバッグに入ってる。値段は大したことないんだが、なんでも戦国時代の、名もない刀工の、モノホンのひとり用の、バリバリの実用品らしい。油紙にくるまれて田舎の倉庫に転がっていたのを、じいちゃんが死んだとき形見分けでもらったんだ」

「……?」

「いや、そいつは渡す気はなかったんだがな。ああその通り……おたくはどうせ金だけもらってトンズラするだろうと思ってたからよ」


 健太郎はやれやれ、と首を振った。


「まさか本当に〝サムライ〟だとは思ってなかった。見くびっていたよ。謝る」


 そして頭を下げた。


「……何を言ってるんだ?」


 亨は戸惑った。


「いやいや……おれは頭でっかちの若造だが、それでもこいつだけは誇りにしていることがあるんだよ。おれは、凪に会って、そしてすぐにあいつが〝スゲエ奴〟だってことを見抜いた。なんてのか、本気の人間って奴をおれは区別できるんだよ。おたくは、おれをこれ以上巻き込まないようにしている。おれから話を持ちかけたにも関わらずな……へっ、ありがたく乗せてもらうよ。おれは近づかない。おたくの邪魔はしねー。だがよ、だったら〝せんべつ〟くらい渡してもいいだろう?」

「…………」


 亨は鍵を握ったまま停まっている。


「…………」


 健太郎は黙って、そんな彼を見ている。


「……何故だ」


 やがて亨が訊いた。


「どうして、はそうやって、俺に……」


 つぶれた右眼から、血がすうっ、と一滴流れ落ちた。

 鍵を握りしめる。


「……ありがたくちようだいする」


 そして亨は、言われたとおりにコインロッカーの前に立ち、中身を開けた。

 確かに、ゴルフバッグがひとつ入れられていた。中を見てみると、実用一点張りのやけに太い、さびめだけのための乱暴なうるしりによる黒ずんだ鉄のさやに、試し振りのための簡易な木のつかという、それぞれバラバラなおよそ外見に気を使っていないないおおが一本入っていた。

 ずしり、と重い。生後一年の赤ん坊よりも遙かに重い。


「────」


 ロッカーの扉に隠して、少しだけ抜いてみる。

 よく日本刀は、その刀身の美しさが語られるが、それはそういう意味では決して美しい刀ではなかった。光っているというより、鈍く沈んだ色合いをしていた。

 だが、亨には一目でわかった。

 その刀には、どこにも〝線〟が見えなかったのだ。もろいところがない──刀身すべてが極めて高い剛性で統一されている。まさに戦場で絶対に折れぬように鍛えられた物に違いなかった。実戦においては、実は刀の切れ味は二の次だという。切れ味は反面、それが鈍ったときの落差を生む。何度も撃ち合い、泥がかぶり、血を浴びて、脂にまみれた刀はとてもではないがカッターナイフのような〝切る〟道具としては使えない。それはもう〝鈍器〟と化すのだ。それでも敵を斬り裂くのは、実はやいばの鋭さではなく、使い手が恐るべき速さで殴りつけながら引くためであり、つまりは〝さつ〟こそが実戦での刀の切断原理なのだ。頑強でなければ何の役にも立たないのである。

 これは、まさしくそういう風に使われていたわざものに違いなかった。


「…………」


 亨はバッグを取り出して、肩にかついだ。

 そして歩き出しながら、渡された携帯電話を手にする。

 そのボタンをひとつ押せば、もはや後戻りはできないのだ。

 既に今は、もうここから遠く離れているはずの羽原健太郎は別れ際にこう言った。


「なんてのかな、たしか聞いたことがあるんだが、サムライっていうのは〝恥を知る者〟とかゆーよーなニュアンスもあるらしい。だから、こいつはかなわないと思ったらすぐ逃げることもサムライとしては正しいんだぜ。わかるよな」

「……まともにやり合うな、と言いたいのか」

「無駄死にはするなってことだよ。個人的には好きな動物なんで、この言い方は嫌いなんだが……どうしようもねえ相手にただ突っ込むだけじゃ犬死にがオチだぞ」

「犬、か」


 主人をなくした犬はどうやって生きていくのか?

 後戻り?

 亨はかすかに笑う。

 そいつは戻るところがある奴だけが使える言葉だ。自分にはもうそんなものはない。

 彼はあっさりとボタンを押した。携帯電話の液晶画面にメッセージが無数に出てきた。その中にさりげなく混じって、その言葉が表示されていた。


"INNAZZUMA"


 そして亨は発信が終わったことを確認すると、携帯電話を近くに停まっていたトラックの荷台に放り捨てた。既に急所を叩かれていた電話は砂利がいっぱい積まれていた荷台の上でばらばらになって、砂利の中に紛れ込んでいってしまった。