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 小声で呟くと彼は顔を上げて、身の前にそびえ立つ、高さはさほどでもないが横に大きく広がっているビルディングを見上げている。華やかな装飾とデザインでまとめられたそこは、ショッピングモールと一体化し、劇場やレストランなどがぜいたくにまとめられている都市のエンターティンメントスポットの目玉としてつくられた場所である。各種企業が合同で出資して建てられたものだが、そのときの中心になった企業体MCEそのものは今はない。現在はテナントなど入れていない損害保険会社にもっとも支配権があるという変な環境にある。

 名前は〈スフィア〉。

〝球体〟という意味だ。その丸っこいところのある形状からの連想だろう。


「…………」


 亨はバッグを背負って、その〝球体〟の中に入っていく。

 入ると、まずショッピングモールなので大変に広い。屋根付きなので風もここまでは届かず、普通に人々が歩いている。平日の昼間とはいえそれなりの人数だ。中央には噴水があったりもする。

 亨がその横を通り過ぎようとしたときである。


「おいおい、何の挨拶もなしかい?」


 という声がすぐ下から聞こえてきた。

 見おろすと、噴水の端に一人の少女が座っていて、なにやら指さしている。その方向を見ると、紙コップが倒れて、中に入っていたジュースがこぼれて噴水の水に混じっていた。

 亨はゴルフバッグを見る。その端っこにジュースのものらしき染みが付いていた。


「倒しちまったのか。そいつはすまなかったな」


 感触はなかったので妙だったが、証拠は歴然なので亨は彼女に頭を下げた。


「いや、別にそれはいいんだがね」


 少女は、キルトのスカートに、黒いベレー帽を被っていてちょっとお嬢様っぽいのに、なんだか男のようなものの言い方をする。近頃の女の子では珍しくないのだろう。亨は女の子のことなどよく知らないのでそんな風に思った。この黒いベレー帽少女の足元には、荷物らしきスポルディングのスポーツバッグが置かれている。


「お兄さん、男が一人で何しにこんなところに来たのかな。ここはデートスポットだぜ」


 黒帽子をかしげて、からかうように言われた。亨は肩をすくめて、


「言っても信じないような用件でね」


 とに言った。すると黒帽子は「ふうん?」と眉をひそめて、


「生命でも賭ける気かい」


 と言った。亨はうなずいた。


「よくわかったな。その通りだ。俺はこれから決闘に行くところなんだよ」


 これまた正直に言う。しかしほとんど冗談にしか聞こえない科白ではある。


「穏やかじゃないね。ここには大勢の人がいるんだぜ」


 黒帽子が冗談についてきた、という調子で訊いてきた。亨は真面目な顔で答える。


「だから警告はするさ。でもすぐに逃げた方がいいぞ、お嬢さん。みんなのことも心配はいらないと思う。警告が出てから逃げるだけのゆとりはあるはずだ」

「まるでこの〝スフィア〟が、数十分後に地獄に変わって、この世から消滅するみたいな言い方だな」


 黒帽子も、妙に真面目な顔で反応してくる。


「実はそうなんだ」

「なんでそんなことをする?」

「みんなの迷惑もかえりみず、か?」

「いや、君の中の必然性というやつの方だよ、ぼくの疑問点は」


 人を君と呼んだり、変に理性的な物言いだが、亨は別にそこに不自然さは感じなかった。雰囲気に馴染んでいた。まるでこの黒帽子は本当は女の子ではないみたいだった。


「そうだな……あんたは人が何のために生きているのか、考えたことがあるか?」

「人は皆、生きるだけの価値があることを探すために生きているのさ」


 黒帽子は即答した。亨は「ふむ」とうなったが、しかし頭を軽く振って、


「そうできればいいんだろうがな」


 と言った。


「すると君はその価値をすでに見つけているのかい」

「すでになくしている、と言うべきだな、俺の場合は」


 亨は苦笑混じりに言った。


「どこで聞いたのか忘れちまったが、たしかこんなことを誰かに言われたような気がする……〝人は自分の中の可能性と格闘するために生きている〟んだってな。意味はよくわからないが、しかしなんとなく納得できるような気もする。今、俺の中にはひとつの可能性がある。そいつを使わないうちは死んでも死にきれない、そんなところかも知れないな」

「それを試すことが、生きることに直結しているのかい? それはまたずいぶんと即物的な人生のように思えるがね」

「実際そうなんだろうよ」


 亨は笑った。

 変な会話である。道端で、女の子が男に声をかけてきて、それで展開する対話とはとても思えない。だが亨は不思議な安定感を覚えていた。


「俺には、もはや生きる価値を見つけるとか、そんなことはぶんそうおうな贅沢なんだろう。最も大切なものを踏みにじってしまったんだからな」

「踏みにじられた方は、君にそんなことをして欲しいとは思っていないかも知れないぜ」

「…………」


 亨は口をつぐみ、うなだれた。だがすぐに、


「それはその通りだろう。俺もあいつのせいにはしない。これは俺だけの問題なんだろう。身勝手で、恥知らずのな」

「根本にあるのは悔しさかい?」

「いや」

「怒りかな」

「違うだろうな」


 黒帽子はふんふんとうなずき、そして切り出すように、


「では──恐怖は?」


 と訊いた。


「……かも知れないが、しかしそれを理由としては選びたくないな。それは二の次だ」


 首を振りながら言うと、黒帽子は何故か肩をすくめて、


「──君は知っているかな?」


 と話をいきなり変えた。


「何をだ?」

「ある種の強さとか、特別な才能とか、そういうものは一番最初からうまく行くものではない。以前に似たようなことをして、似たようなものを掴んでいながら、失敗している者が大抵はいるものだ」


 言いながら、上目遣いに亨を見据えてくる。


「────」


 こいつは何が言いたいのだろう、と亨は思った。彼の能力〝イナズマ〟は敵の隙を見つけるものだ。弱点を的確に突くことができる才能といったところか。これが最初だから、それはうまく行かないだろう、ということなのか?

 亨はサングラスを外す。傷痕も生々しい顔と隻眼があらわになるが、黒帽子はそれにはまるで反応を見せずに言葉を続けた。


「ぼくが知っているだけでも〝彼女〟がいた。彼女にはとても豊かな才能があった。人の心の弱点を見抜くことができた。しかし彼女はそれを使いこなせずに結局〝恐怖喰らい〟になってしまった」


 黒帽子はため息混じりに言うと、あらためて亨の隻眼をまっすぐに見つめてきた。


「大勢の者が、似たようなものを持ちながらそれぞれに失敗している。だが彼らは決して無駄になったわけではないとぼくは信じる。彼らの努力は次の者に受け継がれていく。たとえ彼が以前の者のことなど知らなくとも、それが存在していたことは、彼に遠くとも確かな影響を与えているはずだ」

「──俺にも前がいる、というわけか?」

「君はここにこうしているが、これは決して君だけのものではない。君──君たちは知らずして、多くの者たちが果たしえなかった〝突破〟への意志を背負っているのさ」

「…………」


 亨は片目で黒帽子を見つめる。

 もはや偶然でこいつと出会った、とは彼も思わない。

 だが──別に亨はなんとも思わなかった。


「俺が失敗しても、誰かがこれを受け継ぐというのか?」

「かもね」

「だったら──ここで降りることはますますできないわけだ。を他の誰かに肩代わりさせるのは悪いからな」


 ニヤリと笑う。黒帽子はそれに対して、微笑んでいるような、あきれているような、左右非対称の奇妙な表情をみせた。


「なるほど、それが君のきようか。後ろ向きだか前向きだかさっぱりわからないな」

「前にも後ろに進めないんだから、で踏ん張るしかないだろう?」

「なるほどね──」


 黒帽子はかすかに息を吸った。


「少しでもバランスが崩れていれば、世界の敵になっていたところだったな」