10 ①
最初、そのニュースは何を言っているのかさっぱりわからなかった。
〈──え、えーと、その、またです! あの事件がもう一度起きました!〉
原稿を読んでいるはずのアナウンサーが思いっきりどもっている。
「なんなのよ一体……?」
洞窟の中に隠れている穂波顕子は、ただでさえ電波が入りにくいのでよく聞き取れないのに、さらに放送内容までもが不明瞭なのでいらだっていた。
だがよく聞いてみると、どうやら県庁のすぐ近くの駅前にある〝スフィア〟というファッションビルで事件が起きているということらしい。ビルの事件と言えば、この前の二月に起きたあの事件がすぐに連想されるが、実際によく似た状況になっているようだ。
要するに、各種防火扉が自動で落ちてしまい、いったいどこに仕掛けられていたのかわからない
そして今回も、犯行声明らしきものはまだ出ておらず目的は不明だという──。
『──こいつだ』
彼女の胸元でエンブリオが告げる。
『高代亨だ。あいつがフォルテッシモとの対決のために〝始めた〟に違いないぞ!』
「ど、どうやってこんな大掛かりなことを?」
『統和機構がからんでいることだ。なんだって起こりうるさ』
「…………」
顕子は息を詰めた。
彼女は、エンブリオに教えられていたが、それでもまだ信じられなかったのだ。
高代亨がエンブリオの追跡者フォルテッシモと接触したのに生きていることから、この両者が再戦する可能性があり、かつそれが周囲を巻き込む大事件となって報道されるだろうという予測──
フォルテッシモがどういう奴で、
厳密にはこの予測は的外れであり、大掛かりな事件そのものはフォルテッシモを呼び寄せる役目ではなく、高代亨には別の目的があるということは彼女たちにはわかるはずもなかったが、自分らの状況からすれば関係のない話で、実質的には大当たりと言ってもよかった。
「亨さん──」
『しかも、やっこさんはまだマトモなようだ。無関係な者は逃がしているようだからな。戦いに集中できさえすればいい、というわけだ』
「そのフォルテッシモって──すぐに来るのかしら?」
『そりやあ、な』
「じ、じゃあ私たちもすぐに行かなきゃ……!」
穂波顕子はエンブリオの入れ物である家庭用ゲーム機の携帯端末を握りしめて、洞窟から走って飛び出した。
その先で何が待っているものがなんなのか、彼女はまだ知らない。それが奇妙な〝再会〟であることを。
*
──充満していたガスはあっという間に引いていく。
もともと大して効力と持続性のないガスなのだ。ここ〝スフィア〟はあちこちでこの手の仕掛けを作っていた男にとってはただのテストで、それも『仕掛けを作ってもばれることはあるかないか』という程度の確認作業に過ぎなかったので、作りとしても本番のそれに比べれば非常に荒い。そしてその荒っぽさにふさわしく、もう一つの大仕掛けが用意されている。むしろそっちの方が本来の目的には近い。だが男はより確実性のある方法を選択することにしたので、ここは結局
その霧のようなガスが晴れていく中を二つの人影が進んでいく。いや、よく見ればそのうちの大きい方は、小柄な影がいま一人を背負っているものだとわかる。
彼ら三人はガスが充満していたはずのここを平気で通り抜けてきたのだ。
「──どうしてガスが俺たちのところに来ないんだろう?」
と、姉を背負っている穂波弘は目の前のフォルテッシモについ訊ねてしまう。実は姉ではなくパールだが、彼には姉としての認識しかない。
「ガスが届く前に、空間を切っているからな」
フォルテッシモはさらりと答える。
「──わかんねえよ」
弘はぼやいてしまう。しかしこいつが本性をむき出しにして、姉を行動不能にしてしまったというのに、弘はどうしてかこいつに裏切られて悔しい、みたいな感情を持ちにくい。
強すぎるから逆らう気力が
もっともそれを言うならば、最初の最初からそうなのだ。こんなに怪しい奴なのに、何故か弘はずっとこいつについていくことにさほどの抵抗感を感じなかった。どっちかというと怖がりの彼にしては、これは少し妙な話ではあった。
「…………」
動かぬ姉を背負って、彼はフォルテッシモの後をついていく。隠れ家のホテルからこのビルまでは車で来たので、地下の駐車場からここまでそうやって運んできたのだが、それほど疲れたり負担は感じていない。大して重くないのだ。姉の身体はなんだか妙に軽い。まるで彼よりも小さな子供のようだ。身長自体は姉の方があるはずで、体重も似たり寄ったりだったと思うのだが、女というのは見た目よりも軽いものなのかなあ、と彼は不思議がりながらも歩いていく。
「しかし……いつになったら姉ちゃんを元に戻してくれるんだよ?」
弘が訊ねると、フォルテッシモは含み笑いをして、
「高代亨次第だな」
と言った。
「その〝穂波顕子〟の姿を見て、あいつがどういう反応をするのか、俺が知りたいのはそこのところだ」
「……助けようとするに決まってるよ」
「だと面白いんだがな」
「決まってるさ!」
「ま、すぐにでもわかる。──ん?」
彼らが、目指す場所の少し前まで来たところでフォルテッシモの足が止まった。
そこは、地上七階の高さにある劇場ロビーに通じる入り口だった。今日は公演はなかったらしく、立入禁止の札が掛けられて、
「──こ、こりゃあ……」
弘が思わず声を上げた。
「…………」
フォルテッシモも口をつぐんでいる。
扉は、確かに閉ざされていた。鍵もかかってはいるのかも知れない。だがそれは無意味なものになっていた。
扉のすぐ横の、防音材が挟まっているために十センチ近くはあろうかという壁に、丸い穴があいていた。しかも、それはぶち抜かれたとかそういうのではなく──
「…………」
フォルテッシモは無言でその切断面を観察していた。防音のために綿状の素材もサンドされているが、それすらもまったく押されてずれたりした跡が無く、まるで最初からそういう穴があいているように造られていたみたいだった。
「こ、こいつを、つまり……」
弘が呟きかけたところで、フォルテッシモがその少年の肩をぐいと掴んだ。
「──おい、おまえたちはとりあえず、下がっていろ」
「え?」
「後で呼ぶ──ひとまず隠れていろ」
フォルテッシモは静かに言った。
「ど、どうして?」
「気が変わった──少しばかり確かめてからでも遅くはなさそうだ」
その唇の端はやや吊り上がっている──笑っていた。
弘はそのぞっとするような表情に、つい姉を背負ったまま言われるように後退し、物陰の自動販売機とベンチが並んでいるスペースに隠れた。